映画監督デビューとは? わかりやすく解説

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映画監督デビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:20 UTC 版)

新藤兼人」の記事における「映画監督デビュー」の解説

1951年昭和26年)、大映から請け負う形で近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で39歳にして宿願監督デビューを果たす。この自伝的な内容脚本はどうしても他人にやらせたくなかったと告白している。主演大映人気スター百萬弗のゑくぼ”乙羽信子 で、乙羽がこの脚本読んでどうしても妻の役をやりたい願い出てきたこと、新藤としては愛妻物語モデルである内妻孝子乙羽がよく似ているから、との理由決まった。 また大映持ち込んだ偽れる盛装』が1951年昭和26年)の大ヒット映画となった1952年昭和27年)、近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾取り上げた映画原爆の子』を発表翌年1953年昭和28年)、カンヌ国際映画祭出品。後に公開され外交文書あるいは外務省文書において、当時日本政府はこれを好ましく思っていなかったこと、アメリカ圧力により外務省受賞妨害工作試みたこと、逆にカンヌでは高い評価得ていたこと、が判明している。こうした前評判周囲パルム・ドール期待した落選している。また西ドイツでは反戦映画として軍当局没収される騒ぎもあり、各国物議を醸した世界で反響呼びチェコ国際映画祭平和賞英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。これ以降広島原爆をテーマとした作品つくった。また長崎原爆ものでは1950年長崎の鐘』で脚本担当している。 原爆の子主演乙羽映画制作の際に近代映画協会強引に移籍以降新藤乙羽の関係は続き私生活では新藤には本妻美代その子たちがいたものこの頃より乙羽愛人関係になる。 以降自作シナリオを自らの資金繰り監督する独立映画作家となり、劇団民藝協力カンパなどを得て数多く作品発表。しかし芸術性商業性との矛盾悩み失敗試行錯誤繰り返した核兵器作品続き1959年昭和34年)『第五福竜丸』を発表する興行的に失敗終わり近代映画協会には多額借金残り解散危機陥ったこの頃同時期に日本映画衰退陰り見え大きな映画会社経営困難になり始めた。しかし、産業としての映画衰退は「社会派映画」や「前衛芸術映画」の躍進チャンスでもあった。大映画会社による映画館独占支配体制緩み小さな独立系プロ製作する映画にも上映機会を得ることができるようになった

※この「映画監督デビュー」の解説は、「新藤兼人」の解説の一部です。
「映画監督デビュー」を含む「新藤兼人」の記事については、「新藤兼人」の概要を参照ください。

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