監督デビュー
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1975年、長谷川の噂を聞きつけたATGの多賀祥介に話を持ちかけられ、中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』により翌1976年監督デビュー。製作が決まってクランクインまで丸一年を要した。「30歳の新鋭映画監督登場」、「ニューシネマの旗手」として話題を呼ぶ。この作品はその年のキネマ旬報ベスト・ワンに選ばれるなど、高い評価を受け、多くの映画賞を独占。新人の第1回作品がベスト・ワンになるのは異例であった。長谷川に引っ張られるように、次々に映画界に若手監督がデビューした。1979年にATGの二代目社長に就任した佐々木史朗は「若手監督と仕事をしたいと回りを見渡したとき、ゴジしかいなかった。孤軍奮闘というか、一人で戦争をやっているような感じだった」と話している。相米慎二は「長谷川は映画を動かす時代の始まりだった」と述べている。 1978年に小林信彦の小説『唐獅子株式会社』の映画化に取り組むが、脚本が難航して流れる。また、角川の大作『人間の証明』は、最初に角川春樹から長谷川に直接脚本の依頼があったが、長谷川が角川に対して無礼な物言いを行って流れたといわれる。 1979年、伊地智啓によると、長谷川のためにキティレコードが映画製作部門としてキティ・フィルムを設立。映画のプロがいないので長谷川が伊地智をキティ・フィルムに引っ張り込んだ。当時、『限りなく透明に近いブルー』で作家デビューしたばかりの村上龍と共に次回作に取り組む。村上は、長谷川のために5本の脚本を書いたが、長谷川は乗り気にならなかった。村上は企画を離れ、没脚本を元に小説『コインロッカー・ベイビーズ』を執筆する。長谷川は、新たな脚本家としてレナード・シュレイダーと組み、さらに助監督の相米慎二や黒沢清も執筆に参加し『笑う原爆』と題した脚本を完成する。1979年『太陽を盗んだ男』が公開。キネマ旬報ベスト・テン2位、同誌読者投票1位と高評価を受け、「若手監督の旗手」と、大きな支持を受けた。しかし、この映画は興行的には振るわなかった。この映画が当たらなかったことは、当時の独立系の映画製作者にとってショックが大きかった。こうした事情もあって、本作は長らくカルト映画の位置付けであったが、その後一般的な評価が高まり、映画誌などで<日本映画史上歴代ベストテン>にも挙げられたり、<20世紀を代表する日本映画>などと評されている。本作を最後に、監督作品は発表していない。 1981年12月9日深夜に起こした飲酒運転による人身事故で懲役6ヶ月の実刑判決を受け、1983年3月から同年8月18日まで交通刑務所に5ヶ月間服役。付き合いの広さから新宿のサンルートホテルで出所を祝うパーティが芸能界、麻雀界から多士済々な人々を集めて開催された。このときのことは『月刊プレイボーイ』の1983年12月号と1984年1月号に「市原交通刑務所、163日間体験記」と題して連載した。
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