映画監督への転身
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1984年に51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価を受ける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。 なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、主に1930年代から1940年代のハリウッド映画のシーンやショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか2作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。 またこの作品で、伊丹は前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせることを発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』、国税局査察部(通称「マルサ」)に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を創ったことで、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」というブランドを築くことに成功する。 特に1992年の『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負うが、伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、声こそ出なかったもののピースサインで応えた。警察は現場の車から山口組系後藤組の犯行であることを突き止め、5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。 1993年5月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど、数々の被害や脅迫・嫌がらせを受けることとなったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。身辺警護の経験は1997年の『マルタイの女』で映画化された。 また『タンポポ』は、アメリカでも配給され評判となった。 演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやりやすかったという[要ページ番号]。また、『お葬式』以降、一貫して「死」にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディであり生命賛歌でもある(ラストは母乳を飲む赤ちゃんの映像である)『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。
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