映画監督へ
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「伊藤大輔 (映画監督)」の記事における「映画監督へ」の解説
1898年(明治31年)10月13日、愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。 1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務する。 1920年(大正9年)、呉工廠内で宮地嘉六が主宰する演劇グループに参加したため、労働組合との関係を疑われて同社退社。やむなく文通していた小山内薫を頼って上京。伊丹万作と同居生活をしながら、2月に創立された松竹キネマ付属の松竹キネマ俳優学校(小山内が主宰)に入る。同年、小山内薫の推薦を受けて、田中欽之監督・ヘンリー・小谷撮影の『新生』のシナリオを執筆する。以降松竹蒲田撮影所で50本以上の脚本を書いたあと、1923年(大正12年)に帝国キネマ芦屋撮影所に移って20本以上のシナリオを執筆する。 1924年(大正13年)、国木田独歩原作の『酒中日記』で監督デビュー。同年、『剣は裁く』が時代劇第1作となる。 1925年(大正15年)、東邦映画製作所に入社して同社第1作の『煙』を監督・脚本するが、この1作きりで退社し、伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)を設立、稲垣浩、岡田時彦らが研究生として所属した。設立第1作の『京子と倭文子』や『日輪』三部作を監督するが独立自体は失敗に終わる。
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