女形俳優から映画監督へとは? わかりやすく解説

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女形俳優から映画監督へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:18 UTC 版)

衣笠貞之助」の記事における「女形俳優から映画監督へ」の解説

1896年明治29年1月1日三重県亀山町大字東町現在の亀山市本町)に、煙草元売捌業の父・小亀定助と母・かめのの4男として生まれる。長兄の衡一は後に三重県会議員3期務めながら、第7代亀山町長を務めている。幼い頃から芝居好きの母親に連れられて歌舞伎新派曾我廼家喜劇などを見るようになった1910年明治43年)、亀山男子尋常高等小学校現在の亀山市立亀山西小学校高等科卒業してから私塾笹山塾に通い1914年大正3年)の修了後に役者志す両親反対され、同年4月家出をする。汽車に乗って東京へ向かおうとした途中大垣駅停車中に新派有無会」のポスター見て汽車降り一座の宿を訪ねて女形採用された。その日午後に一座出演する宝生座に出かけたところ、「藤田芳美という立女形新たに作る一座加わらないか」と勧誘され藤田芳美一座加入することになった藤沢守芸名各地巡業後、中京成美団などを経て1916年大正5年)に京都静間小次郎一座加入一座花形井上春之輔の名をとって小井上春之輔と名乗り女形として売り出した1917年大正6年)、連鎖劇団の山崎長之輔一座加わって大阪角座出演中日活大阪支店長の佐々万寿男にスカウトされ日活向島撮影所女形俳優として入社芸名衣笠貞之助変え、翌1918年大正7年1月13日公開の『七色指環』(小口忠監督)が第1回出演作品となった以後革新映画第1作といわれる田中栄三監督の『生ける屍』を始め田中小口監督の『金色夜叉』、田中監督の『己が罪』『西廂記』など、5年間で約130本の作品出演し日活向島代表する女形として活躍した1920年大正9年)、この頃から映画界では女優採用踏み切り女形新派前途限界感じた衣笠監督転向し自身脚本による『妹の死』で監督デビューする。『妹の死』は、機関士自分運転する機関車可愛がっていた妹を轢いてしまうという物語で、藤野秀夫機関士横山運平火夫演じた主人公の妹役を演じたのは衣笠自らで、その女装のままカメラの脇に立って演出行ったという。 1922年大正11年9月日活向島総監督に就任した牧野省三監督としての才能買われ向島在籍のまま牧野教育映画製作所監督作発表する内田吐夢との共同監督による『噫小西巡査』や、菊池寛原作の『火華』などを同製作所で製作。この2作には自ら出演もしており、女形姿の衣笠撮影技師田中十三に「そこで絞って頂戴な」とカメラ指定したのは、後々まで話題となった

※この「女形俳優から映画監督へ」の解説は、「衣笠貞之助」の解説の一部です。
「女形俳優から映画監督へ」を含む「衣笠貞之助」の記事については、「衣笠貞之助」の概要を参照ください。

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