撮影助手から映画監督へとは? わかりやすく解説

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撮影助手から映画監督へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 22:18 UTC 版)

横田豊秋」の記事における「撮影助手から映画監督へ」の解説

1903年明治36年8月27日東京市麹町区内幸町1-5現在の千代田区内幸町1-5現在の千代田区内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子本名横田冬)である。 当時私立エリート校・芝区芝公園正則中学校現在の正則高等学校在学中不良仲間江川宇礼雄知り合い1920年大正9年)に横浜大正活動映画大活)の俳優となった江川影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所入社撮影助手となる。まもなく江川のいる大活移籍撮影助手続ける。 同年夏、大活撮影所借りて撮影された映画真夏の夜の夢』で俳優としてデビューした平田延介(のちの山本嘉次郎)と知り合う以来長いつきあいが始まる。同社撮影所閉鎖江川獏与太平内田吐夢井上金太郎らと京都入りし、牧野省三の「牧野教育映画製作所」の設立参加するが、横田平田1922年大正11年2月東京深川区現在の江東区深川)に設立した無名映画協会」に撮影技師として参加した。同協会は『ある日熊さん』(詳細不明)、『未来大名優』(監督近藤伊与吉5月19日公開)の短篇2本を撮って解散したこのころまだ横田19歳である。 1923年大正12年)、平田京都小笠原プロダクションで『愛の導き』に出演し、翌1924年大正13年)、早川プロダクション製作の『熱火十字球』の監督平田抜擢されると、横田はその監督助手つとめた同年秋、大活俳優だった井上監督として活躍している、西宮市甲陽園東亜キネマ甲陽撮影所入社し平田が「山本嘉次郎」名で監督する断雲』の監督助手となった1925年大正14年)、山本とともに東京戻り高松豊次郎率い東京府南葛飾郡吾嬬町現在の墨田区京島)の「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」に入り、同撮影所マキノ・プロダクション製作の『輝ける扉』を山本監督横田助手についた引き続きマキノ製作の近藤伊与吉主演作男児一諾』で、主演監督山本共同監督として、22歳横田監督デビューした。横田の昔仲間江川西山普烈名義)も出演している同作は、翌1926年大正15年1月22日浅草大東京」で公開された。同年監督として一本立ちし近藤主演の『港の謙吉』、国枝史郎原作佐久間八郎主演の『銅銭会事変』を監督する一方で監督役者境目のない同社社風から、役者近藤長崎武が共同監督した楠公の唄』に主演俳優としてデビュー引き続き友成用三監督山本主演作陽炎の舞』に江川西山名義)とともに出演する同社では江川も1本監督している。

※この「撮影助手から映画監督へ」の解説は、「横田豊秋」の解説の一部です。
「撮影助手から映画監督へ」を含む「横田豊秋」の記事については、「横田豊秋」の概要を参照ください。

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