吾嬬撮影所
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「タカマツ・アズマプロダクション」の記事における「吾嬬撮影所」の解説
関東大震災後の大正末期、1925年に東京府下南葛飾郡吾嬬町(1932年の南葛飾郡の廃止で東京市向島区)に「高松プロ」が建設した同撮影所は、現在の東京都墨田区京島3丁目62番19号にあった。東武亀戸線(1904年開業)の小村井駅と曳舟駅の間の十字路に面した区画にあった。 これは「日活向島撮影所」とは異なるものである。1913年に建設・開所し、1923年の関東大震災で崩壊、その機能をすべて京都の日活大将軍撮影所に移転して閉鎖した「日活向島撮影所」の所在地は、同じ南葛飾郡であるが、隅田村字堤外142番地(現在の墨田区堤通2丁目19番地1号)で、吾嬬撮影所の真北、隅田川に面した場所であり、現在は墨田区立堤小学校となっている。 開所した1925年、まず「高松豊次郎プロダクション」が高松操監督の『義憤の血煙』(1925年9月11日公開)を撮影した後、つづいて「阪東妻三郎プロダクション」が「阪東妻三郎プロダクション吾嬬撮影所」として使用、井上金太郎監督の『異人娘と武士』(配給マキノ・プロダクション、1925年9月25日公開)を撮影、つづいて同年、「マキノ・プロダクション」が「マキノ・プロダクション東京撮影所」として使用、山本嘉次郎監督の『輝ける扉』(1925年12月4日公開)、高松操監督の『クロスワード』(1926年1月1日公開)、山本嘉次郎・横田豊秋共同監督の『男児一諾』(1926年1月22日公開)、近藤伊与吉監督・主演の『名士』(1926年2月11日公開)の3本を撮影した。つづく1926年初頭より「タカマツプロダクション吾嬬撮影所」として、「タカマツ・プロダクション」が改名後第一作の撮影を開始、翌1927年まで使用した。 「タカマツ・アズマプロダクション」は1927年で映画の製作活動を停止するが、吾嬬撮影所は残っていた。1945年の東京大空襲で焼失し、現在は住宅地になっている。
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