マキノとの共闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 09:36 UTC 版)
「阪東妻三郎プロダクション」の記事における「マキノとの共闘」の解説
20歳前後から大部屋俳優として苦労してきた阪東妻三郎は、1923年(大正12年)10月、牧野省三のマキノ映画製作所が製作した寿々喜多呂九平オリジナル脚本による『鮮血の手型』で名を上げ、21歳でスター俳優となった。同社の東亜キネマへの合併後も牧野のもとで活躍していたが、1925年(大正14年)6月、牧野の東亜からの独立、マキノ・プロダクションの設立とともに、同年9月に阪東も独立、「阪東妻三郎プロダクション」を設立した。阪東妻三郎23歳のときのことである。 記念すべき設立第1作は、牧野の総指揮、寿々喜多のオリジナル脚本による二川文太郎監督の『雄呂血』であったが、マキノ・プロダクションの御室撮影所はまだ建設途中であったため、東亜キネマの等持院撮影所で撮影された。阪東と東亜の契約はまだ残っており、その都合上、第2作『異人娘と武士』を第1作としてリリースせざるを得なくなった。『異人娘と武士』は、マキノ・プロダクション設立に呼応して、東京の高松豊次郎が設立したタカマツ・アズマプロダクションの吾嬬撮影所を「阪東妻三郎プロダクション吾嬬撮影所」として使用、井上金太郎監督が演出した阪東の主演作で、同年9月25日に、マキノ・プロダクションの配給により、金森万象監督のマキノ御室作品『奇傑鬼鹿毛 第三篇』と二本立てで公開された。その後『雄呂血』は、同年11月20日、阪妻プロ第2作として、マキノ省三監督のマキノ御室作品『義士と侠客』と二本立てで公開された。 第3作、志波西果オリジナル脚本による監督作『魔保露詩』は、奈良にある中川紫郎の中川紫郎プロダクションの撮影所で撮影、つづく1926年(大正15年)初頭の志波オリジナル脚本による監督作『尊王』も東京の吾嬬撮影所で撮影していたが、撮影中に松竹キネマからの交渉を受け、同作から松竹キネマが配給することとなった。第5作にあたる志波オリジナル脚本による監督作『素浪人』は、京都の松竹下加茂撮影所で撮影された。
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