マキノの星の下でとは? わかりやすく解説

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マキノの星の下で

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 04:57 UTC 版)

滝沢英輔」の記事における「マキノの星の下で」の解説

1902年明治35年9月6日東京市芝区三崎町現在の港区三田4丁目)の葉茶屋の家に生まれる。3歳上の兄は映画監督二川文太郎本名瀧澤吉之助)である。旧制東京府立工芸学校現在の東京都立工芸高等学校卒業後、新劇研究をすべく劇研究会を組織した1925年大正14年3月21歳のとき京都入りし、兄のいる東亜キネマ等持院撮影所入社月形龍之介主演する兄の監督作『乱刀』にオリジナル脚本を提供(「瀧澤憲名義)、同年7月15日公開された。翌月には続編滝沢脚本によって同様に製作され公開された。同年6月、すでに等持院撮影所長の牧野省三東亜キネマ退社しマキノ・プロダクション設立しており、マキノ御室撮影所開所ののちに兄とともに同社移籍引き続き瀧澤憲名義俳優助監督として同社所属した同年公開の『復讐兄弟』を皮切りに牧野長男である、滝沢6歳下のマキノ正博当時は正唯、17歳)と多く共演した1927年昭和2年)には久保為義監督の『この母を見よ』では主演マキノ正博監督出演もした杉狂児主演作の『謎の一夜』にも出演している。 1928年昭和3年)のスター大量退社事件後の山上伊太郎オリジナル脚本マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』ではチーフ助監督として同作支え大ヒットキネマ旬報ベストテン第1位を勝ち取る一助となった。翌1929年昭和4年)、26歳のときに「滝沢英輔」と改名し岡島艶子主演の『ある女と画家』で映画監督としてデビュー同作同年4月26日公開された。同年7月25日マキノ・プロダクション代表の牧野省三死去、没後50日を迎えた9月発表され新体制では、本名の「瀧澤憲名義で「監督部」の最末席名を連ねる新体制後の監督第4作パイプ三吉』では、キネマ旬報ベストテン第7位を獲得年内にも『霽るゝ』を撮りデビュー年に5作をものした1930年昭和5年)の三村伸太郎オリジナル脚本南極に立つ女』等、現代劇を手がけてきたが、1931年昭和6年)の正月第2弾金森万象稲葉蛟児三上良二久保為義との共同監督名を連ねた真田十勇士』、マキノ正博応援監督得た赤鞘安兵衛』と2本の時代劇を手がけ、同プロダクション解散迎えた

※この「マキノの星の下で」の解説は、「滝沢英輔」の解説の一部です。
「マキノの星の下で」を含む「滝沢英輔」の記事については、「滝沢英輔」の概要を参照ください。

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