マキノの星の下で
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1902年(明治35年)9月6日、東京市芝区三崎町(現在の港区三田4丁目)の葉茶屋の家に生まれる。3歳上の兄は映画監督の二川文太郎(本名・瀧澤吉之助)である。旧制東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)卒業後、新劇の研究をすべく劇研究会を組織した。 1925年(大正14年)3月、21歳のとき京都入りし、兄のいる東亜キネマ等持院撮影所に入社、月形龍之介が主演する兄の監督作『乱刀』にオリジナル脚本を提供(「瀧澤憲」名義)、同年7月15日に公開された。翌月には続編も滝沢脚本によって同様に製作され、公開された。同年6月、すでに等持院撮影所長の牧野省三が東亜キネマを退社し、マキノ・プロダクションを設立しており、マキノ御室撮影所開所ののちに兄とともに同社へ移籍、引き続き「瀧澤憲」名義で俳優兼助監督として同社に所属した。同年末公開の『復讐と兄弟』を皮切りに、牧野の長男である、滝沢の6歳下のマキノ正博(当時は正唯、17歳)と多く共演した。1927年(昭和2年)には久保為義監督の『この母を見よ』では主演、マキノ正博監督が出演もした杉狂児主演作の『謎の一夜』にも出演している。 1928年(昭和3年)のスター大量退社事件後の山上伊太郎オリジナル脚本、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』ではチーフ助監督として同作を支え、大ヒットとキネマ旬報ベストテン第1位を勝ち取る一助となった。翌1929年(昭和4年)、26歳のときに「滝沢英輔」と改名し、岡島艶子主演の『ある女と画家』で映画監督としてデビュー、同作は同年4月26日に公開された。同年7月25日にマキノ・プロダクション代表の牧野省三が死去、没後50日を迎えた9月に発表された新体制では、本名の「瀧澤憲」名義で「監督部」の最末席に名を連ねる。新体制後の監督第4作『パイプの三吉』では、キネマ旬報ベストテン第7位を獲得、年内にも『雲霽るゝ』を撮り、デビュー年に5作をものした。 1930年(昭和5年)の三村伸太郎オリジナル脚本『南極に立つ女』等、現代劇を手がけてきたが、1931年(昭和6年)の正月第2弾、金森万象・稲葉蛟児・三上良二・久保為義との共同監督に名を連ねた『真田十勇士』、マキノ正博応援監督を得た『赤鞘安兵衛』と2本の時代劇を手がけ、同プロダクションの解散を迎えた。
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