マキノとの日々、ふたたびとは? わかりやすく解説

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マキノとの日々、ふたたび

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 09:14 UTC 版)

三木滋人」の記事における「マキノとの日々、ふたたび」の解説

1943年昭和18年)、マキノ正博所長就任した松竹京都撮影所正式に移籍マキノプロデュースによる辻吉郎マキノ真三共同監督作品海賊旗吹っ飛ぶ』のキャメラ回した主演当時スタア高田浩吉共演尾上菊太郎マキノ一家沢村国太郎、そしてかつてスタア去りしのちのマキノ・プロダクション渾身の作『浪人街』で主役張った南光明であった。翌1944年昭和19年)、マキノ松竹大船撮影所プロデュース監督をした『不沈艦撃沈』、マキノプロデュース溝口監督による『団十郎三代』(1944年)、『宮本武蔵』(同)、『名刀美女丸』(1945年)の各作品撮影技師として支え第二次世界大戦末期松竹を、マキノ溝口とともに支えた戦後も、松竹マキノ溝口監督キャメラマンとしての日々過ごし1947年昭和22年)末、マキノ監督の『愉快な仲間』を最後に松竹去り一度フリーランスとなったのちに、京都新しく設立され東急電鉄系の「東横映画」にマキノとともに移籍する同社マキノ実弟マキノ満男興した会社である。入社第1作は、マキノ正博大作金色夜叉前・後であった同作尾崎紅葉有名な原作ではなく武者小路実篤エッセイ(あるいは戯曲)を原作とした。 1948年昭和23年)、マキノ正博高村正次頼まれ阪急電鉄小林一三との約束宝塚スタジオ内部設立したシネマ・アーチスト・コーポレーション」(CAC)に招かれマキノ監督作幽霊暁に死す』などの撮影担当する同社寿命短く三木マキノも、やがて東横映画戻りマキノは「マキノ雅弘」と改名した東横映画は、1951年昭和26年4月1日に3社合併により東映となるが、その直前に、かつて三木東亜キネマ甲陽撮影所を去る際に撮った谷崎原作の『お艶殺し』をマキノリメイクしたのが、東横でのマキノ三木最終作品となった合併同時に東映入社した三木は、『浪人街』のリメイク酔いどれ八萬騎』(監督マキノ雅弘1951年)、佐々木康監督による4度目リメイク一本刀土俵入』(1954年)、稲垣浩傑作マキノ雅弘監督によるリメイク弥太郎笠』(1960年)、東宝でのマキノ雅弘人気シリーズのセルフ・リメイク『次郎長三国志』全4作のうち3作(1963年 - 1964年)、そして、「ポスト・チャンバラ」である「任侠もの」に火をつけた、マキノ雅弘監督の『日本侠客伝』(1964年)、『日本侠客伝 浪花篇』(1965年)の撮影技師つとめて1965年昭和40年)に引退した1968年昭和43年10月21日死去した65歳没。晩年一時期内務省技術審査員歴任した

※この「マキノとの日々、ふたたび」の解説は、「三木滋人」の解説の一部です。
「マキノとの日々、ふたたび」を含む「三木滋人」の記事については、「三木滋人」の概要を参照ください。

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