スタア
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『スタア』は、三島由紀夫の短編小説。人気絶頂の20代の映画俳優を主人公にした一人称小説で、三島自身が俳優として初主演した映画『からっ風野郎』の撮影経験がヒントになって書かれた作品である[1][2][3][4]。
注釈
- ^ それまでも自作の映画化作品『純白の夜』、『不道徳教育講座』などに出演したことはあるが、すべて端役である[15]。
- ^ 三島は、従来的な自然主義的私小説の懺悔や告白小説は〈嘘〉だとし[22][23]、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と言っていた[23]。
- ^ 三島はそこで、〈イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない〉とも語り、西郷隆盛や乃木大将の死は〈イリュージョンの完成〉だとして、〈人間というものにはそういうやみがたい欲求があるのじゃないか〉としている[24]。
- ^ 澁澤龍彦は『天人五衰』において、「初めて、三島文学の中に〈現実〉が入ってきた」と指摘し、その闖入した〈現実〉を「破綻」とも言い換えている[46][5]。
- ^ 三島は『小説とは何か』の第11回の中で、〈二種の現実〉(作品内の現実と作品外の現実)を決して混同しないことが〈私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも本質的な方法論であつた〉とし[39]、〈二種の現実の対立と緊張〉から〈書くことの根源的衝動〉が生れてくると語っている[39]。その二種の現実のいづれにも最終的に
与 せず、その二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す、私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづけることができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、私は到底耐へられない。 — 三島由紀夫「小説とは何か 十一」[39] - ^ その三島の二元論的な把握の源は、トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』から得た〈芸術家〉対〈美しい無智者〉の分裂意識[51]、〈小説固有の問題〉である〈芸術対人生、芸術家対生、の問題〉意識で、それは〈われわれが生きながら何故又いかに小説を書くか〉〈われわれが生きながら何故又いかに芸術に携はるか〉という近代小説固有の問題に帰着すると三島が述べている[40]。
出典
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- ^ Star-三島由紀夫(CiNii Books)
- ^ “Donald Keene Center of Japanese Culture”. www.keenecenter.org. 2023年6月15日閲覧。
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- ^ 「『からつ風野郎』の情婦論」(講談倶楽部 1960年4月号)。映画論 1999, pp. 300–306、31巻 2003, pp. 404–410に所収
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- ^ a b 澁澤龍彦・出口裕弘の対談「三島由紀夫――世紀末デカダンスの文学」(ユリイカ 1986年5月号)。澁澤 1986, pp. 198–263に所収
- ^ a b c 磯田光一「華麗なる仮面劇(昭和35年~昭和40年)」(アルバム 1983, pp. 65–79)。『磯田光一著作集1 三島由紀夫全論考 比較転向論序説』(小沢書店、1990年6月)に所収
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- ^ 松本徹『三島由紀夫論』(朝日出版社、1973年12月)。事典 2000, p. 200に抜粋掲載
- ^ 「文化防衛論」(中央公論 1968年7月号)。防衛論 2006, pp. 33–80、35巻 2003, pp. 15–51に所収
- ^ 「芸術にエロスは必要か」(文藝 1955年6月号)pp.88-90。28巻 2003, pp. 481–485に所収
- ^ a b c 田中美代子「小説の創り方19――0氏の自画像」(19巻 2002月報)
- ^ a b c 「第六章 小説に描かれた三島由紀夫――蠱惑する文学と生涯【四 実録小説】」(岡山 2016, pp. 170–173)
スタア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:27 UTC 版)
南北戦争での戦訓をもとに米国で開発された、世界初の人型蒸気。しかし、背後に巨大な蒸気機関を背負ったトップヘビーの設計で機体バランスは極めて悪く、数歩歩いただけで転倒するなど実用機とは言い難かった。
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スタア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 09:57 UTC 版)
端正な容姿とともに繊細そうな印象をあたえる好青年だが、それとは裏腹に体内に別人格を潜ませている不死身の男。
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