討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:35 UTC 版)
『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』(とうろん みしまゆきお ばーさす とうだいぜんきょうとう びときょうどうたいととうだいとうそう)は、三島由紀夫と東大全共闘との討論会。晩年の三島の思想や貴重な肉声を今日に伝える「伝説の討論」として今なお語り継がれている。[1]。1969年(昭和44年)5月13日の火曜日の午後2時頃より、東京大学教養学部900番教室の会場に集まった約一千人の学生と約2時間半にわたって討論が行われた[2][3]。主催は東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会(代表・木村修)で、前日の5月12日から「東大焚祭」が開催されていて、13日に三島が招かれた[3]。
注釈
出典
- ^ a b 「カバー解説」(全共闘 2000)
- ^ a b c d e f 「砂漠の住民への論理的弔辞――討論を終へて」(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘〈美と共同体と東大闘争〉』新潮社、1969年6月)。全共闘 2000, pp. 124–145、35巻 2003, pp. 474–489
- ^ a b c d e 山中剛史「解題――討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」(40巻 2004, pp. 790–791)
- ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
- ^ a b c d e f g 「第四章 邂逅、そして離別」(保阪 2001, pp. 189–240)
- ^ 「24 定例会合――かっこいいだろう」(村上 2010, pp. 150–156)
- ^ a b 「昭和44年」(日録 1996, pp. 365–384)
- ^ 「第五章」(梓 1996, pp. 165–205)
- ^ 田中美代子「解題――砂漠の住民への論理的弔辞――討論を終へて」(35巻 2003, pp. 779–780)
- ^ a b 「和気あいあいの“対決”――三島由紀夫氏 東大全共闘と討論」(サンケイ新聞 1969年5月14日号)。35巻 2003, p. 779
- ^ 「年譜 昭和44年5月13日」(42巻 2005, p. 307)
- ^ 「『楯の会』のこと」(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)。35巻 2003, pp. 720–727
- ^ a b c 岩佐壯四郎「全共闘」(事典 2000, pp. 513–514)
- 1 討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争とは
- 2 討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争の概要
- 3 評価・解釈
- 4 おもな刊行本
- 5 音声資料
「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の例文・使い方・用例・文例
- 討論での重点は失業問題であった
- 彼はばかげた冗談を言って無作法に我々の討論に割り込んできた
- 討論を終える
- 討論は小休止の後,また続けられた
- 討論を始める
- 長い討論の末に
- その案は討論中だ
- それは討論すべき事柄だ
- 我々は彼の計画のいい点,悪い点について1時間討論した
- 討論はののしり合いになってしまった
- 討論はだらだらと長引いた
- 討論者は相手方の議論にやり込められてしまった
- その生徒達は討論の練習のために4つのグループをつくった
- 自由な討論
- 2人の討論者の見解の大きな隔たり
- 討論に熱中したあまり私は自制心を失った
- きょうの会議は討論しなければならない事項がたくさんある
- 私は討論に加わった
- 長時間にわたる討論
- 彼と私はこの討論で反対の立場にある
- 討論_三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争のページへのリンク