不忍池とは? わかりやすく解説

しのばず‐の‐いけ【不忍池】

読み方:しのばずのいけ

東京都台東区上野公園内の南西部にある池。周囲約2キロ寛永寺建立の際に琵琶湖なぞらえて築いた弁天島がある。

不忍池の画像
空からのようす
不忍池の画像
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不忍池

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 04:28 UTC 版)

不忍池
蓮池
所在地 東京都台東区
位置
面積 0.11 km2
周囲長 2 km
水面の標高 5 m
プロジェクト 地形
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地図

不忍池(しのばずのいけ)は、上野恩賜公園東京都台東区)の中に位置する天然のである[1]

地形

上野恩賜公園の南端に位置し周囲は約2キロメートル、全体で約11万平方メートル。北で上野動物園西園、東で京成上野駅、南と西で不忍通りに接している。

現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配している。また、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれており、それぞれ、一面がハスで覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。各池の詳細は以下の通りである。

名前 面積(千m2 平均水深(cm) 水量(千m3
蓮池 55 84 46
ボート池 30 86 26
鵜の池 25 92 23

名前の由来

弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。

ただし、異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津しのわづが転じて不忍になったという説(『新編武蔵風土記稿』『神代余波』)、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)や、上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説(『江戸妙子』『江戸名所図絵[2])もある。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた[3][4][5]

なお読み方は、古くは「しのはすが池」、「しのばすの池」、「しのわつ池」と呼ばれた[6]

地理

1752年の地図上の不忍池(中央上やや右)。
高橋由一による絵画、不忍池。1880年頃の作品。
歌川広重

かつて、旧石神井川[注釈 1]武蔵野台地の東端を割って谷を作り、海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置する。東岸にあたる上野台地(いわゆる「上野のお山」)や西岸にあたる本郷台地(東京大学の立地する台地。南は神田山(駿河台)へと連なる)に比べると、10m以上も標高の低い谷あいになっている。

縄文海進時は、東京湾の入り江だった。その後、海岸線の後退とともに取り残され、紀元数世紀頃に池になったと考えられる。池となった時期については平安末期に海との縁が切れて沼となり、その後埋め立てが進み江戸期に独立した不忍池となったとも言われる[7]

江戸時代より前は、不忍池からの南流があり、於玉ヶ池を経て、現在の東京湾へ注いだ(旧石神井川河道と同じ)。江戸時代には、不忍池から忍川が東流し三橋を通り上野広小路を横切り三味線堀(三味線川とも呼ばれる)[8]へ繋がり、下流の鳥越川を経て蔵前より隅田川へ注いだ[9]

1625年江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。比叡山が京都御所の鬼門に位置するため、寛永寺も江戸城の鬼門に位置する場所に建てられた[10]。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ、弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を建設した。当初の弁天島は文字通り船で渡る島だったが、1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。これにより不忍池が広く知られるようになった[11]。弁天島の南にはかつて経島があったが、天和2年(1682年)に取り崩された[12]

慶応4年1868年)、彰義隊の戦い(上野戦争)で、東叡山寛永寺は根本中堂はじめ幾多の伽藍を焼き払われて落城した。戊辰の役における江戸で唯一の戦争で、当日の朝、官軍が放った一発の砲弾が不忍池に落ちて、水しぶきをあげたのが戦闘の引き金だったという説がある[13]

明治時代の初期までの池の形は現代のものとはかなり異なっていた。特に池の北側は今よりもかなり広く、藍染川(谷田川)も注いでいた。また、弁財天の中島への両側は家が建ち並び、明治5年(1872年)4月には不忍天竜町という町名さえ起立されていた[14]。上野の山が公園に指定されたのに伴い、1875年に不忍池も公園に編入された。このときの面積は18ヘクタール、1989年当時に対して1.7倍の広さだった[15]。しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てが行われ、ほぼ現在の形が出来上がった。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われた。1898年には池のほとりで大日本双輪倶楽部が日本人による最初の自転車競走を行った[16]

不忍池にそそぐ愛染川は上野台と本郷台の谷間を流れる自然の創造から生まれた古代河川[17]であったが、1923年(大正12年)関東大震災を契機に、焼野原と化したため、当時の政府は東京の復興の一環として暗渠化して埋め立てた。これに伴い不忍池の周りにあった龍門橋、雪見橋、中ノ橋、花見橋も消え去った[18]

池への流出入河川がない。水源は、若干の自然湧出地下水のほかは、以前は井戸水および近接する京成電鉄京成上野駅地下ホームからの湧出地下水を人工的に汲み上げ放流したものであった。ただ、これだけでは水質保持・水量保持が難しいことから、2003年(平成15年)9月3日よりJR上野駅新幹線地下ホームからの湧出地下水の汲み上げ放流も始まった[19][20]。これにより、水量は一応の安定を見ている。JR、京成とも湧出水を提供することで、そのまま下水に排出した場合にかかる下水道料金を免除されている。

変遷

江戸時代、寛永寺が建立され弁天島が築かれてから名が知られるようになった。池の蓮は有名で、茶店は蓮飯を売り出し、蓮の若根は将軍家に献上された[11]1907年には、東京勧業博覧会のため、西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。博覧会の第一会場は山上竹の台等、第二会場は山下不忍の池の周囲であった[21]。池畔にはイルミネーションやウォーターシュートも設けられた[22]

1929年に、築堤工事により池が4つに分割された。また1931年には、現在まで続く貸しボートの営業が開始された。現在、鵜の池になっている範囲は当時は2つの池に分かれていた。戦後の一時期は水が抜かれて水田(不忍田圃)となり[23]、初年度の収穫量は200俵だった[24]。その跡地には野球場を建設する案なども出されたが、1949年に池のまま保存することで合意され、現在に至る。

1967年9月19日には、不忍池と地下鉄千代田線の建設現場を仕切る柵が崩れ[25]、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。復旧作業は速やかに行われて同月24日は水を入れ直した。1990年から1994年にかけては水質浄化のため東京都建設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが集中的に行われた。

不忍池は、上野公園の南西部にある周囲2キロメートルの池。天海僧正(1536 - 1643)は、この池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を建てた。江戸時代以来、文人墨客の集う蓮の名所として知られ、その壮観さは訪れる人々を魅了してきた。蓮の花の絵あり[26]

2014年、池の南側に水上からハスを間近に観察できる遊歩道が完成した[27]。「蓮見デッキ」と呼ばれている[28]

自然

鳥類

不忍池では、渡り鳥・留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ、多い時には1万羽を超えることもある。1960年頃から多数のカモ類が飛来するようになり[29]オナガガモホシハジロキンクロハジロヒドリガモハシビロガモなどカモの池として有名であったが、近年カモは数を減らし、変わってユリカモメセグロカモメなどが多くやってくるようになった。

不忍池で繁殖する水鳥はバンカイツブリカワウカルガモなど[29]。上野動物園の園内扱いになる部分にはカワウの島もある。不忍池のカワウは昭和30年代に動物園が飼っていたものを羽を切って池に放したのが始まりで、これに野生のカワウが合流した。カワウの繁殖地は日本でも数か所で、都会にあるのは世界中でもここだけである[30]

森鴎外が不忍池を舞台として小説「」を書いた当時は雁が飛来していたと思われるが、戦後にはは姿を見せなくなった[31]

魚類

カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚が多い。在来の水生動物にはフナモツゴドジョウヌマエビテナガエビなどがいる。特に多いのがである。1876年に池ざらいをした際には大きなが200匹上がったことがある[32]

植物

ボート池を除く部分にはハスの繁殖が著しく、毎年夏になると池の南部はほぼ埋め尽くされる状況である。江戸時代には色とりどりの花のハスが植えられていたと言われるが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮との二系統だけである。秋には白いアシが池一面に広がる[33]

渡り鳥が多く蓮の花が咲きほころぶ光景は、名勝として数多の錦絵に描かれている。毎年8月頃には巨大な緑色の葉の中にピンクの大輪の花が姿を見せる[34]。不忍池に蓮の花が咲き乱れている様子は江戸時代の名所案内書「江戸雀」に和歌として詠まれている[35]

不忍池の蓮」 不忍池は、上野公園の南西部にある周囲2キロメートルの池。天海僧正(1536 - 1643)は、この池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を建てた。江戸時代以来、文人墨客の集う蓮の名所として知られ、その壮観さは訪れる人々を魅了してきた。蓮の花の絵あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「不忍池の蓮」より抜粋[26]

その他

明治維新後、不忍池において殺生がかまわない時期もあったが、1876年からは禁じられている[32]

2006年6月に不忍池で特定動物である産卵中のワニガメが発見され、自然繁殖している可能性が指摘された。この事件以来、ボート池の周辺にカミツキガメ、ワニガメの危険性を訴えるポスターが貼られ周囲が網で覆われている。

不忍池をモチーフにした作品

小説

夕暮れの不忍池

川柳

江戸時代には「出合茶屋」という男女密会の場があり、不忍池周辺にはとくに多くあった。蓮の名所であることから、池の茶屋、蓮の茶屋などと呼ばれ、「柳多留」等の川柳作品にも多く取り上げられた[36]

音楽作品

石碑

不忍池の中央にある弁天島にはユニークな石碑が多いことで知られる。以下のようなものがある(時計周りの配置順)。

  • 琵琶碑(島中央・弁天堂前)[37]明治19年(1886年)9月 銅製琵琶型 山岡鉄太郎謹書[43]


そのほか不忍池周辺には以下のものがある。

ギャラリー

周辺施設

アクセス

その他

  • 不忍池の西に広がる地名「池之端」は、不忍池の近くにあることから名づけられた。
  • 1909年、アメリカ人ハミルトンは、横長の軽気球で不忍池の上空を飛んだ。1909年12月9日、軍人の相原四郎は、自動車に引っぱられたグライダーで空中を飛翔したが、綱が切れて不忍池に落ちた[50]
  • 不忍池周辺はかつてはホームレスの寄り集まる場所であったが2006年ごろに周囲に立入禁止のロープが張られ、テントとともに一掃された。

脚注

注釈

  1. ^ 上流部は現在の石神井川に等しいが、飛鳥山につきあたって南転し、駒込駅の東を経て不忍通りに重なる谷筋を流れていた。石神井川が飛鳥山の北から東へ隅田川に注ぐ現在の流路をとるようになった時期と経緯については諸説あるが、有力な説では蛇行の進行した結果、ある種の河川争奪縄文期頃に自然発生したものとされる。水を奪われた古石神井川の下流部には谷地形だけが残る形になったが、大正期までは谷田川/藍染川と呼ばれる小規模の川が流れ、不忍池に注いでいた。

出典

  1. ^ 東叡山寛永寺ホームページ”. 寛永寺. 2023年2月17日閲覧。
  2. ^ 斎藤 1927, p. 215.
  3. ^ 小沢 & 冨田 1989, pp. 17–18.
  4. ^ a b c 谷根千工房 1989, p. 36.
  5. ^ 原祐一(東京大学埋蔵文化財調査室)『向ヶ岡弥生町 News Letter』Vol.1、2012年6月1日。 
  6. ^ 加瀬谷忠夫 編著『東京案内』 その一 上野公園、文真堂、1976年4月8日、43頁。 
  7. ^ 小林 1980, p. 20.
  8. ^ 菅原健二『川の地図辞典』 江戸・東京/23区編、之潮〈フィールド・スタディ文庫 1〉、2007年12月25日、113頁。ISBN 978-4-902695-04-5 
  9. ^ 本田創 編著『東京「暗渠」散歩 失われた川を歩く』(改訂版)実業之日本社、2021年2月1日、194頁。ISBN 978-4-408-33965-8 
  10. ^ 「東京歴史地図」編集室 編『大都市はこうしてできた! 東京歴史地図』メイツユニバーサルコンテンツ〈「わかる!」本〉、2022年11月10日、38頁。ISBN 978-4-7804-2646-5 
  11. ^ a b 東京都台東区 1966, p. 10.
  12. ^ 小林 1980, p. 21.
  13. ^ 小沢 & 冨田 1989, p. 20.
  14. ^ 田中正大「上野公園の成立」『造園雑誌』第27巻第1号、1963年、24-31頁、CRID 1390001205670670976doi:10.5632/jila1934.27.24 
  15. ^ 小沢 & 冨田 1989, p. 21.
  16. ^ 『「上野がすごい 日本の未来を創る街」第1章 歴史がすごい(東叡山輪王寺門跡門主、寛永寺貫主 浦井正明)』中央公論新社、2024年12月10日、p36頁。 
  17. ^ 東京都台東区『道路・橋梁考』東京都台東区〈台東業書〉、1963年3月25日、86頁。NDLJP:3010356 
  18. ^ 『いちにいさんぽ』正則高等学校、1978年3月5日、51頁。 
  19. ^ 「JR年表」『JR気動車客車編成表』 '04年版、ジェー・アール・アール、2004年7月1日、185頁。ISBN 4-88283-125-2 
  20. ^ 第Ⅱ章 与条件等の整理=上野恩賜公園再生基本計画(平成4年3月)”. 東京都建設局. 2025年2月17日閲覧。
  21. ^ 藤島亥治郎 著、多児貞子、森まゆみ 編『ジャーナリズムに見る明治の上野』谷根千工房〈確連房文庫 2〉、1992年4月20日、83頁。NDLJP:13132924 
  22. ^ 鈴木健一『不忍池ものがたり 江戸から東京へ』岩波書店、2018年10月24日、105頁。ISBN 978-4-00-061299-9 
  23. ^ 歴史ミステリー研究会 編「日本橋や銀座にも畑が出現する」『終戦直後の日本 教科書には載っていない占領下の日本』彩図社、2020年8月20日、84頁。ISBN 978-4-8013-0465-9 
  24. ^ 小林 1980, p. 74.
  25. ^ 「水を入れるのは二十四日 不忍池、大急ぎ復旧工事」『朝日新聞』1967年9月20日、夕刊3版、11面。
  26. ^ a b 清水晴風「不忍池の蓮」『東京名物百人一首』1907年8月。NDLJP:2533447 
  27. ^ 台東区長の2014年新年挨拶”. www.hattori.in (2014年1月1日). 2025年2月9日閲覧。
  28. ^ 上野恩賜公園マネジメントプラン』東京都建設局、2022年9月、19頁https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kensetsu/0000595322025年2月9日閲覧 
  29. ^ a b 上野の杜事典編集会議 1995, pp. 60–62.
  30. ^ 谷根千工房 1989, pp. 27–30.
  31. ^ 滝山正治『東京文学散歩 上野・谷中・本郷・浅草・隅田川界隈』東京文学散歩の会、2007年6月29日、4頁。国立国会図書館サーチR100000134-I000394854 
  32. ^ a b 林 & 丹尾 1994, p. 31.
  33. ^ 上野の杜事典編集会議 2006, p. 60.
  34. ^ 江戸歴史研究会『江戸のひみつ 町と暮らしがわかる本 江戸っ子の生活超入門』メイツ出版、2019年7月30日、146-147頁。ISBN 978-4-7804-2219-1 
  35. ^ 『上野不忍池と蓮』園芸文化協会、2012年、10頁。国立国会図書館書誌ID:030263484 
  36. ^ 興津要『江戸文学ウォーキング 読んで楽しく歩いてみよう東京漫歩記』ごま書房、1999年3月30日、16-17頁。4-341-13050-1。 
  37. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 谷根千工房 1989, p. 38.
  38. ^ 諸碑銘 1968, p. 396.
  39. ^ 諸碑銘 1968, p. 400-403.
  40. ^ 諸碑銘 1968, p. 399-400.
  41. ^ 諸碑銘 1968, p. 404-405.
  42. ^ 諸碑銘 1968, p. 406-407.
  43. ^ 諸碑銘 1968, p. 393-395.
  44. ^ a b c 諸碑銘 1968, p. 405.
  45. ^ 諸碑銘 1968, p. 395-396.
  46. ^ 諸碑銘 1968, p. 407.
  47. ^ a b c 谷根千工房 1989, p. 37.
  48. ^ 諸碑銘 1968, p. 410.
  49. ^ a b 諸碑銘 1968, p. 410-411.
  50. ^ 林 & 丹尾 1994, p. 51.

参考文献

  • 上野の杜事典編集会議 編『上野のお山を読む 上野の杜事典』谷根千工房、1995年9月。 NCID BA37826748 
  • 上野の杜事典編集会議 編『上野のお山を読む 上野の杜事典』(新版)谷根千工房、2006年3月。ISBN 4-9902965-0-8 
  • 小沢信男、冨田均『東京の池』作品社、1989年12月。ISBN 4-87893-151-5 
  • 小林安茂『上野公園』郷学舎〈東京公園文庫〉、1980年11月1日。NDLJP:12422799 
  • 斎藤長秋 編「卷之五 玉衡之部 不忍池」『江戸名所図会』 3巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、215,220-223頁。NDLJP:1174157/112 
  • 東京都台東区『台東区史』 社会文化編、東京都台東区、1966年3月31日。NDLJP:3019513 
  • 林丈二、丹尾安典『こんなに面白い上野公園』新潮社〈とんぼの本〉、1994年3月。ISBN 4-10-602025-4 
  • 谷根千工房 編『しのばずの池事典』谷根千工房〈"東京の地方"叢書 3〉、1989年2月。NDLJP:13315027 全国書誌番号:89041513 
  • 古宇田亮宣 編『上野公園及びその周辺の諸碑銘』古宇田亮宣(上野観光連盟)、1968年、p.267~438頁。国立国会図書館サーチR100000001-I13111102105082 (「上野繁昌史 続」(上野観光連盟昭和43年刊)の抜刷)

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