じょうもん‐かいしん【縄文海進】
縄文海進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/01 07:19 UTC 版)
縄文海進(じょうもんかいしん)は[1][2]、地質学的には完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)を指す海進である[3][注釈 1]。すなわち最終氷期の最寒冷期後(19,000年前)から始まった温暖化にともなう海水準上昇を指す。日本では縄文時代の始まり(16,000年前)に近い。海水準上昇は約120メートルにおよんだ(年速1–2cm)[4]。
注釈
- ^ 日本では有楽町で最初に調べられたことから有楽町海進とも呼ぶ。
- ^ 現在は日本ではピーク時から海水準は約5メートル低下した。
- ^ 例えば、2005年に出版され話題となった中沢新一『アースダイバー』は、東京における縄文海進による水没範囲を実際よりも過大に示しているが、この本をフィクションと考えない人も多く、誤解を生む原因になっている。
- ^ 霞ヶ浦は堆積が進まなかったので現在でも湖水を湛え、かつて鬼怒川の河谷だった西浦は現在三角江状となっている。同様に香取海も中世まで内海だった。
- ^ 当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられた。
- ^ 『仙台市史』通史編1(1999)。ただし、この海水準は1地点のボーリング調査のみに基づく数値であり、複数地点調査による広範な海成粘土層が確認されたわけではない。相原淳一2019「多賀城と貞観津波」『考古学雑誌』第101巻第1号、日本考古学会、pp. 1–53による批判がある。
文献:Omoto. K, 1979. Holocene sea-level change: A critical review. The Science Reports of the Tohoku University, 7th Series (Geography), vol.29, No.2, pp. 205–222名取の第Ⅰ浜堤列下の標高0.9mから、ハマグリ・カキ・ヤマトシジミの自然貝層が確認され、ヤマトシジミによって年代測定が行われ、4,470±129yr.BP(TH-373)(Omoto1979)が得られている。この年代はIntCal13で暦年較正(2σ)すると、3,515–3,398、3,385–2,888yr.calBCである。汽水産のヤマトシジミの海洋リザーバー効果を鹹水産貝類の半分の約200年と仮定すると、5,265–4,638yr.calBPに補正される。この年代はすでに寒冷化が始まっていたとされる縄文中期中葉であり、関東地方の「縄文海進」頂期の黒浜式期(6,450–6,050yr.calBP)とは1,000年以上隔たっている。なお、この+0.9m(未満)の海水準の面的な広がりについては未確認である。
出典
- ^ 『縄文海進』 - コトバンク
- ^ 『縄文海進』 - ジャパンナレッジ
- ^ a b “縄文海進の原因について。日本史教科書には温暖化で氷河が溶けたためとあるのですが、氷河は主因ですか。”. 日本第四紀学会. 2017年4月28日閲覧。
- ^ ただし厚い氷床に覆われた地域では陸地が後氷期地殻隆起したため、海水準上昇を打ち消す方向の効果も働いた。
- ^ a b “第2章 富士見の歴史”. 富士見市. 2017年4月28日閲覧。
- ^ “「縄文海進」”. 日本第四紀学会. 2021年10月31日閲覧。
- ^ “地面の下って、どうなっているの?”. 埼玉県環境科学国際センター. 2017年4月28日閲覧。
- ^ “さいたま市立博物館の常設展示”. さいたま市. 2017年4月28日閲覧。
- ^ 東木龍七1926、「地形と貝塚分布より見たる關東低地の舊海岸線(一)」『地理学評論』 1926年 2巻 7号 p.597-607, doi:10.4157/grj.2.597
- ^ 山内清男1967、「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」『古代』第48号、pp.1-16, NAID 40001385814 この年代観は短期編年論と呼ばれ、のちに破綻する。参考:長沼正樹2005「日本列島における更新世終末期の考古学的研究 : 縄文文化起源論と旧石器終末期研究の学説史に着目して-」『論集忍路子』pp.57-73, hdl:2115/59224
- ^ 松島義章2006『貝が語る縄文海進-南関東、+2度の世界』有隣新書64, ISBN 9784896602081
- ^ 中田正夫、前田保夫、長岡信治 ほか1994、ハイドロアイソスタシーと西九州の水中遺跡 第四紀研究 1994年 33巻 5号 p.361-368, doi:10.4116/jaqua.33.361
- ^ 戸田哲也・舘弘子2001「羽根尾貝塚の発掘調査成果とその意義 日本考古学 2001年 8巻 11号 p.133-144, doi:10.11215/nihonkokogaku1994.8.133
- ^ 山本浩文2009「本州東方沖北西太平洋における化石群集解析による海洋表層循環系の考察」『地質学雑誌』 2009年 115巻 7号 p.333-343, doi:10.5575/geosoc.115.333
- ^ 小野寺信吾1971「岩手県藤沢町の沖積層から産出した貝殻の14C年代―日本の第四紀層の14C年代(68)-」『地球科学』第25巻第4号、地学団体研究会、188-189頁
- ^ 熊谷常正1983「岩手県における縄文時代前期土器群の成立 -条痕文系土器群から羽状縄文土器群へ」『岩手県立博物館研究報告』第1号 pp. 45–65
- ^ 小元久仁夫、大内定1978、「仙台平野の完新世海水準変化に関する資料」『地理学評論』 1978年 51巻 2号 p.158-175, doi:10.4157/grj.51.158
- ^ 太田陽子、松島義章、海津正倫1988、「日本列島の縄文海進高頂期の海岸線図について」『地図』 1988年 26巻 1号 pp. 25-29, doi:10.11212/jjca1963.26.25
- ^ 前杢英明2006、「室戸半島の第四紀地殻変動と地震隆起」『地質学雑誌』 2006年 112巻 Supplement 号 p.S17-S26, doi:10.5575/geosoc.112.S17
- ^ この章は、相原淳一2018、『「縄文海進」と貝塚の分布 (PDF) 』『東北歴史博物館友の会だより』第19号 より引用
縄文海進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:03 UTC 版)
現代から約3000年前の紀元前10世紀頃に縄文海進のピークがあり、博多湾の海岸線は、次の中世期の袖の湊形成期に述べるよりも、さらに大きく後退しており、これに現代の福岡市の主要河川の樋井川、那珂川、御笠川が注ぎ込むことと、縄文海進ピーク以降の現代までの緩慢な海退により、縄文期の海岸線より海側に向けて徐々に海浜砂による砂礫層が形成されていった。中世の袖の湊形成期は、「冷泉津」や「草香江」が現在の市内中心部に大きく進出していた時代であるが、これは14世紀(1301年~)頃に始まる小氷期によるやや大規模な海退の手前の時期にあたる。 参考文献:コンソーシアム・福岡による各資料
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