遺跡の特色と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 07:19 UTC 版)
縄文早期から晩期まで長期間にわたって存続した遺跡であり、縄文海進と海退といった自然環境の変化に合わせ、縄文人が土地利用を変化させてきた様子がうかがえる。丘陵の斜面に位置する集落と、低地に位置する水辺の遺構の双方の変遷を知ることができる点も貴重である。また、湧水地帯にある本遺跡からは動物・植物両方の遺体が多量に出土しており、それらが土器・石器・木製品をともなって層位的に出土するため、これら遺物のもたらす情報量がきわめて多く、縄文人の生活実態を具体的に知ることのできる遺跡である。 珪藻化石の分析によれば、遺跡の中心となる舌状台地の周辺の低地は、縄文早期には縄文海進の影響で潟湖となっていたが、前期には干潟となり、中期以降は低湿地へと変化している。縄文早期の遺物は、遺跡東側の微高地から出土するが、量は少なく、この期の遺構は残っていない。前期には台地東側の低地に貝塚3か所とドングリ(コナラ)の集積1か所がみられる。貝塚は汽水に生息するシジミが中心である。ドングリには保管中に発芽しないように加工した痕がある。中期には気候寒冷化の影響で海岸線がほぼ現在の位置まで後退した。中期から後期には、遺跡北側(丸池の北西側)の丘陵斜面に集落が形成された。後期には遺跡西側の低地の開発が進み、いわゆる「水辺遺構」(後述)が形成される。晩期中葉には「水辺遺構」の利用が終わり、縄文人の生活痕跡も少なくなり、彼らは他所へ移動したとみられる。 前期の遺物包含層からは、ドングリなどに混じって、カボチャの近似種の種が出土している。一般にカボチャは日本へは16世紀頃に渡来したとされている。後期の包含層からは栽培種と思われるアサ、ヒエ属、ゴボウ近似種が出土している。
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