遺跡の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/25 22:29 UTC 版)
スカラ・ブレイの住民は、明らかに grooved ware の作り手であり、使い手であった。彼らの住居は地下シェルター状であったが、それは以前から存在していた貝塚 (middens) として知られる塵(ごみ)の山の下に築かれた。塵山の層は住居の安定性という点では難があったが、そこに築かれた最大の目的は、何層にも重なる塵山が断熱材の役割を果たして、オークニーの厳しい冬を凌ぐことができる点にあった。住居は平均すると 40m² くらいで、そこには調理や暖を取ることを目的とした炉のある大きな正方形の部屋があった。島には樹木が乏しかったため、屋根葺きの材料には流木、鯨鬚(くじらひげ)、芝の藁などが利用された。 住居には、食器棚、衣裳棚、椅子、収納箱などの石造家具類が多く存在していた。洗練された排水設備が集落の設計に組み込まれており、各住居には原始的な便所も据え付けられていた。住居群のうち7件は同じような家具を備えており、寝台と衣裳棚は各住居の同じ場所にある。その衣裳棚は入り口の向いの壁に据え付けられており、その住居に入った人が真っ先に目にするようになっている。 8番目の家には収納箱も衣裳棚も無く、中が小部屋に分かれている。この家が発掘されたとき、石、骨、枝角 (en) などの断片が出土した。そのため、この家は石斧や骨角器といった簡単な道具を製作していた作業場であった可能性が指摘されている。 遺跡には、ヨーロッパで最古と見なされるヒトノミ(ヒトに寄生するノミの一種。学名:Pulex irritans、英語名:Human flea)の痕跡も見つかっている。 放射性炭素年代測定によって、スカラ・ブレイには紀元前3100年頃から600年ほどにわたって人が住んでいたことが明らかになっている。気候が変動し、ますます寒冷で湿潤になった紀元前2500年頃に、スカラ・ブレイは放棄されたようである。何故、この時期に突然住民が去ったのかについては様々な仮説が提示されているが、いずれも推測を裏付けるような決定的な証拠を伴うものではない。 現在目にすることのできる遺跡群は、それだけで有機的な統一性を保っているが、海の侵食作用によって失われてしまった構成要素部分がどれくらいあったのかは、未解明である。
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遺跡の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:35 UTC 版)
弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡である。 当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡である。 遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓である。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。 倭迹迹日百襲姫命は、一説に邪馬台国の女王・卑弥呼とされる。 肥後和男は大正時代の笠井新也の見解を紹介している。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。その根拠は以下の通りである。崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い。 モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている。 モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許される。 この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳である事から、箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの見解もある(白石太一郎らの見解)。一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであるが、魏志倭人伝における卑弥呼の墓の記述と合わないのでは無いかと云う指摘がある。魏志倭人伝には「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」とあり、この大きさは魏志倭人伝に使われている短里の場合、30m前後であり、箸墓古墳は大きすぎることになる。さらに、魏志倭人伝では古墳の大きさは径で記されていることから、円墳かそれに類似したものと考えられる。よって前方後円墳である箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは疑問符がつく。(ただし、前方部は後世に追加で造成されたのであるという説もある)。 2013年になって、3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。 3世紀を通じて搬入土器があるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達するが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。 本遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していた事を証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。関川尚功は、「魏志倭人伝によると卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡では全く出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無い」としている。
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