ヤマト王権の王都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:35 UTC 版)
寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。 3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。 搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。 生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。 導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。 居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。 鉄器生産。(纒向遺跡では鉄器は見つかっていない) また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、景行天皇の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。 寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、三世紀の日本列島には他に存在しない。とすれば、三世紀の纒向遺跡こそが、『ヤマト王権』と呼ばれる列島最初の王権の都宮が置かれた都市であった可能性がきわめて高いといえる」と結論付けている。 石野博信もまた、大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場が検出されたこと、また、近畿以外の諸地域からもたらされた土器が異常に多いこと、そして、これらの土器の構成から纒向には少なく見積もっても5人に1人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々であろうと推定されることを論拠として、決して自然発生的なムラではなく、人工的に造られた都市であるとしている。 また、次のような指摘も、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強している。 周囲には5世紀の雄略天皇の長谷(泊瀬)朝倉宮、6世紀の欽明天皇の師木(磯城)島大宮(金刺宮)などの宮もみられる。 『万葉集』にも纒向の地名を詠んだ歌が数多く収録されている。
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