ヤマト王権の東国統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
『日本書紀』は東国の経営について、四道将軍、豊城入彦命、ヤマトタケル、御諸別王(豊城入彦命三世孫)の各伝承を載せる。 四道将軍は、崇神天皇(第10代)10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣されたという伝承である。4人のうち大彦命は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は会津で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。記載自体が伝承性の強いものであるが、考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野は未開の地であったと考えられている。 次いで崇神天皇48年、崇神天皇皇子の豊城入彦命が東国経営を命じられたという。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており、その後も命の子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていないと見られる。 景行天皇(第12代)の時代には、武内宿禰が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還した。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている。ヤマトタケルの遠征は毛野地域の本格的な経営に先立つ事業であったと見なす考えもある。 その後、景行天皇55年に彦狭島王(豊城入彦命の孫)が東山道十五国都督に任じられたが、途中で没したため御諸別王(彦狭島王の子)が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという。これをもって、御諸別王が実質的な毛野経営の祖と考えられる。 以上のように、毛野地域はヤマト王権による東国経営の後半期に進められたとされる。加えて、東海道は「征討・帰還型」の派遣であるのに対し東山道は「治政・移住型」であるとする説がある。そして御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった上毛野氏各人物の活躍が記述される。また傍系の吉弥侯部(浮田国造)や下毛野国造に繋がると見られる上毛野田道は朝鮮での活動だけでなく、現在の宮城県まで進出し、雷神山古墳に埋葬されたと見る説もある。 大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と呼ばれる上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。
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