ヤマト国家から律令制へとは? わかりやすく解説

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ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)

ヤマト王権」の記事における「ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)」の解説

6世紀前半砂鉄素材とする製鉄法が開発され自給可能になったこともあって、ヤマト王権対外的には消極となった562年伽耶諸国百済新羅両国支配下にはいり、ヤマト王権朝鮮半島における勢力拠点失った。そのいっぽう半島からは暦法など中国文物移入するとともに豪族民衆系列化組織化漸次的に進めて内政面強化していった。ヤマト王権内部では、中央豪族政権における主導権や、田荘部民などの獲得めぐって抗争つづいた大伴氏失脚後は、蘇我稲目物部尾輿崇仏か排仏かをめぐって対立し大臣蘇我馬子大連物部守屋の代には、ついに武力闘争至った丁未の乱)。 丁未の乱制した蘇我馬子は、大王泊瀬部皇子据えたが(崇峻天皇)、次第両者対立し、ついに馬子大王殺害した続いて姪の額田部皇女即位させて推古天皇とし、厩戸王聖徳太子とともに強固な政治基盤築きあげ、冠位十二階十七条憲法制定など官僚制とする大王権力の強化革新積極的に進めた6世紀中葉日本に伝来した仏教は、統治支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書編纂された。これ以降氏族制度基軸とした政治形態や諸制度徐々に解消されヤマト国家段階終焉迎え古代律令制国家形成されていくこととなる。

※この「ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)」の解説は、「ヤマト王権」の解説の一部です。
「ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)」を含む「ヤマト王権」の記事については、「ヤマト王権」の概要を参照ください。

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