終焉
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終焉(14世紀~15世紀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 21:18 UTC 版)
「コンスタンティノープル」の記事における「終焉(14世紀~15世紀)」の解説
「コンスタンティノープルの陥落」も参照 14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。 1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲(ウルバン砲)を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。
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終焉
「終焉」の例文・使い方・用例・文例
- 終焉を迎える
- 終焉が近づくにつれ, 妻の呼びかけにもほとんど反応を示さなくなった.
- 終焉を告ぐ
- 彼は植民地の創造、居住と終焉を研究した
- キリストで世界に対する神の計画と、キリストのこの終焉を説明する聖パウロからエペソ人へ使徒書簡を含む新約聖書
- 何かをするか、いくつかの終焉を達成する過度の熱情
- 通常2季で発芽から終焉を迎えて完了するライフサイクルを持つ植物
- それは彼のあらゆる計画の終焉だった
- 俗世でのよい行いと悪い行いに応じて神が人間の運命に判決を下すハルマゲドンに続く時間の終焉における日
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