終焉とその後
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同時進行的に英米からザ・ビートルズに代表される新しい音楽が大量に流入し、日本の音楽界は一気に多様化することになる。こうなるともはや日本の大衆音楽はジャンルとしてひとくくりに出来るものではなくなり、音楽ジャンルとしての「流行歌」は1960年代初めをもって事実上の終焉を迎えた。その後、流行歌にたずさわった歌手や作詞家・作曲家たちは、演歌歌手に転向したり歌謡曲と違う分野に転身したりと散り散りになり、やがて多様化する音楽分野の波の中に埋没して行った。 1960年代にデビューした弘田三枝子がザ・ピーナッツの和製ポップスに続いてリズム・アンド・ブルースのジャンルを日本に持ち込み、日本歌謡界における楽曲ジャンルの多ジャンル化に拍車が掛かった。流行歌手出身で演歌歌手的なスタンスをとっていた美空ひばりも1989年に死去し、以後1990年代にJ-POPやラップなどのジャンルが誕生するなど、現在に至るまで日本の楽曲は多種多彩なジャンルが生まれている。
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終焉とその後
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「ぐら・こん」は1971年末の『COM』休刊と共に本誌から切り離され、事実上の終了となった。一方で「ぐら・こん」を継承しようとする動きもあり、「ぐら・こん」の関西支部長だった中島隆は「ぐら・こん」を引き継ぐ内容の同人誌を企画し、『マンガジュマン』に次いで『あっぷる・こあ』を創刊した。しかし主要スタッフの高宮成河が方向性の違いを理由に離脱したことで、1975年にこれも行き詰まる。中島は後継者を募り、8月か9月に集会を開いたが、応じる者はいなかった(この時に集会で接触した漫画批評集団「迷宮'75」の原田央男、亜庭じゅん、米沢嘉博らは、すでにコミケットの開催に向けて動いていた)。結局、九州支部長だった人物が引き継ぐことになったが、この『新生ぐらこん』も2号で消え、完全に途絶えた。 「ぐら・こん」の遺志を引き継ぐ形で、第1回コミック=マーケットが開催されたのは、1975年12月21日のことであった。
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終焉とその後
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「東宝チャンピオンまつり」の記事における「終焉とその後」の解説
1975年から春公開のみの年一回へ縮小。1976年にはディズニー映画も登場したが、この時は特撮作品が1本も無い唯一のプログラムだった。そして「東宝チャンピオンまつり」は1978年の上映をもって終了し約9年の歴史に幕を降ろした。 その後、1980年3月に『モスラ対ゴジラ』とテレビで人気だったアニメ『ドラえもん』の新作長編『ドラえもん のび太の恐竜』の2本立てを公開した。このヒットを受け、「東宝チャンピオンまつり」の流れは毎年3月に公開される『映画ドラえもん』の長編版と藤子不二雄作品の組み合わせへ引き継がれていった。
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終焉とその後
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1996年のゴールデンウィーク期間中にはLIVE UFOを発展解消した『LIVE WORKS』と題して、国立代々木競技場や渋谷周辺などの各所でスポーツ・ライブ系のイベントが開催された。また、1997年にはフジテレビの河田町から台場への本社移転を契機として、フジテレビ主催によるGWイベントも同年に代々木から撤退した。 フジテレビの台場移転後、GW期間のイベントは1998年の「フランスまつり」などを経て、2005年 - 2008年の4年間「お台場学園〜文化祭〜」が開催された。以後も様々なイベントを経て、2014年より新たに「春フェス」が開催されている。 なお、台場移転初年度となった1997年夏に、移転後初の本格イベントとして「お台場Do Donpa!」が開催された(7月19日 - 8月8日)。その後も、夏休みに地方や郊外からお台場に観光に来る観光客の取り込みが可能なことや、1995年当時と比べネットをはじめとした口コミや安定した収益・顧客数が見込めること、自社敷地内を使用できることなどから、開催は妥当と判断され引き続き夏のイベントが定着し、2017年現在の「お台場みんなの夢大陸」に至るまで毎年続いている。
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終焉とその後
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「フォルマ (レーベル)」の記事における「終焉とその後」の解説
1969年末までにクアルチンはフォルマの権利を売却。フィリップス・レコード内のいちブランドと化したフォルマは、その後トロピカリアムーブメントを象徴する作編曲者ホジェリオ・ドゥプラによるサウンドトラック「Brasil Ano 2000」を発表。翌1970年には、新進気鋭のシンガーソングライターだったイヴァン・リンスやゴンザギーニャ(ルイス・ゴンザーガの息子)をデビューさせるなど、MPBシーンへ急接近したが、1972年に活動を停止した。 1970年代以降は、断続的に続いた音楽業界の再編などに伴ってフォルマのカタログはフィリップス・レコードからポリグラムへ移管された。1998年、ユニバーサル ミュージック グループがポリグラムを併合。フォルマのカタログも同グループが保有することとなった。 クアルチン自身は1970年からレーベル「クアルチン(Quartin)」を設立。フォルマ時代から関係のあったヴィクトル・アシス・ブラジルのソロアルバムを制作したり、デオダートが制作に携わったアメリカのロックグループ「Best Of Friends」のアルバムをブラジルで配給するなどしたが、数年で活動を終了した。
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終焉とその後
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6世紀から7世紀にかけてランゴバルド人やフランク人の脅威が増し、イコノクラスムをめぐるローマ教皇と東ローマ皇帝・コンスタンティノープル総主教の対立が深まる中で、間に立つラヴェンナ総督府の立場は一層不安定になった。皇帝レオーン3世はラヴェンナ総督パウルスに対し、重税に抵抗する教皇グレゴリウス2世を殺すか投獄するよう命じたが、パウルスはこれに失敗して727年にグレゴリウス2世が扇動した反乱軍によって殺された。エウティキウスが後を継いだが、751年にランゴバルド王アイストゥルフに滅ぼされ、ラヴェンナ総督府は消滅した。このことは同時に、上記のように皇帝との対立を深めていたローマ教皇の自立を意味した。総督府滅亡直前の740年時点でラヴェンナ総督府の支配下にあった地域は、イストリア、ヴェネツィア、フェラーラ、ラヴェンナ(厳密な意味でのラヴェンナ総督領)、ペンタポリス、ペルージャだった。 教皇ステファヌス2世の要請を受けたフランク王ピピン3世は、756年にランゴバルド王国を破り、旧ラヴェンナ総督領を東ローマ帝国に返還せずそのまま教皇に寄進した。このピピンの寄進は、774年にランゴバルド王国を滅ぼしたカール大帝によって拡充され、ここに教皇領が成立した。ただしラヴェンナ大司教は東ローマ帝国以来のラヴェンナにおける特権と独立教会の地位を保った。 ランゴバルド人によるラヴェンナ総督府の滅亡、そして教皇の東ローマ帝国からの独立によって、ユスティニアヌス1世時代に獲得された東ローマ領イタリアはそのほぼすべてが失われた。総督府滅亡後、ナポリやカラブリアなど残存している南イタリア(マグナ・グラエキア)の東ローマ帝国領はバーリのカテパノの統括下に入った。9世紀にシチリアがアラブ人に征服されると、この地域はテマ・カラブリアとテマ・ランゴバルディアに再編され、アドリア海北岸のイストリアはダルマティアに編入された。
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