終焉と名残
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/12 17:03 UTC 版)
「ブルックリン・ラピッド・トランジット」の記事における「終焉と名残」の解説
第一次世界大戦とそれに伴う強烈なインフレーションにより、ニューヨークの公共交通事業者は厳しい状態に置かれることになった。市との契約により、運賃は5セントに定められていたからである。インフレーションによりその実際の価値は、以前の3セント未満となってしまった。1918年11月1日には、アメリカ合衆国の都市鉄道で起きたものとしては死者数が2番目となるマルボーン・ストリート鉄道事故が起きて少なくとも93人が死亡し、BRTをさらに苦しめることになった。既に財務的に苦しんでいる会社をこの事故がさらに不安定にすることになった。 BRTは1919年に債務不履行に陥った。BRTは再編成され、1923年にブルックリン・マンハッタン・トランジット (BMT) となって破産管財を脱して再出発した。 1885年まで時代をさかのぼる、BRTのかつての高架鉄道網の一部は、現代においてもなお使用されている。もっとも長い旧BRT高架鉄道区間は、BMTジャマイカ線のフルトン・ストリート上を走る場所で、アラバマ・アベニュー駅からクレセント・ストリート駅の先で北に曲がって少しの区間である。これ以外の残存区間のほとんどは、デュアル・コントラクトの一環として1915年から1922年にかけて造り直されたか大幅な改良工事を受けている。1896年から1905年にかけて建設されたフランクリン・アベニュー・シャトルの高架区間も、1999年に大規模に改良されている。 BRT時代の一部の車両が保存されている。BU車が9両とAB標準車が5両あり、これらすべてが1923年発足のBMTによっても運行されていた。
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