ピピンの寄進
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ピピンの寄進(ピピンのきしん)とは、756年にフランク王であるピピン3世がローマ教皇にランゴバルド王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進した出来事である。ラヴェンナはウマイヤ朝の北アフリカ領を牽制できる拠点であったが、ピピンは765年にアッバース朝のバグダードへ使者を派遣し後ウマイヤ朝を孤立させた。ラヴェンナが一時東ローマ帝国のものであったことから、ピピンの寄進は教皇庁と東ローマ帝国を対立させた。イコノクラスムの最中に行われ、近代まで続く宗教戦争の原因となった。
- ^ 五十嵐修 『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』39p 講談社選書メチエ、2001年
- 1 ピピンの寄進とは
- 2 ピピンの寄進の概要
ピピンの寄進
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「ピピン3世 (フランク王)」の記事における「ピピンの寄進」の解説
詳細は「ピピンの寄進」を参照 ピピンは王位承認の見返りの一環として、754年から755年にかけてランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦い、ラヴェンナを奪って756年に教皇ステファヌス3世に献上した。これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった。また759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人(イスラム帝国)をフランスから駆逐することに成功し、さらにアキテーヌも王国に組み入れた。 768年にピピンはサン=ドニで崩御し、サン=ドニ大聖堂に葬られた。
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ピピンの寄進
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詳細は「ピピン3世 (フランク王)#ピピンの寄進」を参照 フランク王国の国王でカロリング朝の始祖であるピピン3世は、ローマ教皇ステファヌス2世によるフランク王位承認の見返りとして、755年、ランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦って勝利し、この戦いで獲得したラヴェンナをローマ教会に寄進した。これを、「ピピンの寄進」(英: Donation of Pepin , 伊: Promissio Carisiaca )といい、ラヴェンナはのちの教皇領(羅: Civitas Ecclesiae )のもととなった。 なお、教皇領については、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が教皇シルウェステル1世に寄進したという「コンスタンティヌスの寄進状」(羅: Constitutum Donatio Constantini )という古文書があったが、のちに教皇ステファヌス2世とその側近による偽書であることが判明している。
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