ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国」の解説
フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス2世はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。 この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた。つづく教皇レオ3世は800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた。 かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。
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