ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国とは? わかりやすく解説

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ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国」の解説

フランク王国メロヴィング朝君主替わってカロリング家実権を握るようになると、教皇カロリング家接近し非常に親密な関係を結ぶようになった教皇ザカリアスカロリング家ピピン3世王位簒奪支持し、つづく教皇ステファヌス2世ガリアピピン3世宮廷に自ら赴き、フランク王国イタリアの政治状況介入するという約束引き替えに、ピピン3世の息カールカールマン塗油秘蹟施した。 この時期ラヴェンナ大司教東ローマ皇帝利益代弁しローマ教皇北イタリア教会管轄権争っていた。ピピン3世ランゴバルド族討伐すると、ラヴェンナ征服しローマ教皇献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇世俗的領土として教皇領形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝774年イタリア半島遠征し教皇ハドリアヌス1世ローマ中心とした中部イタリア献じた。つづく教皇レオ3世800年カール大帝ローマ招いてローマ帝冠授け彼に西ローマ皇帝地位与えたかくして西ローマ帝国事実上復活しフランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家代表することとなった教皇教皇国家といえるような世俗的な領土持っていたとはいえ基本的に教皇領帝国一部皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇東ローマ帝国コンスタンティノープル総主教とは異なり皇帝官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝承認を必要とせずに選ばれたのであって教皇選任対す皇帝統制制度としては介在することはなかった。またカール大帝帝冠教皇から与えられたことは、のちに世俗君主皇帝名乗るのに教皇承認を必要とするという観念つながり教皇優位性与え根拠となった

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