ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立とは? わかりやすく解説

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ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立」の解説

741年カール・マルテル死後王国実権2人嫡出子カールマンピピン3世庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンピピン3世はグリフォを幽閉して王国二分した743年2人空位であった王位キルデリク3世推戴した。747年カールマンモンテ・カッシーノ修道院引退したため、ピピン3世単独実権握り750年頃にはアキテーヌを除く王国全土ピピン支配服していた。 カロリング家君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家ローマ教皇との間に疎隔もたらしていたが、ボニファティウス仲立ちとして両者徐々に歩み寄った739年頃からボニファティウス通じてカール・マルテル教皇親密やりとりしていた。742年カールマンアウストラシア数十年間途絶えていた教会会議召集した745年にはボニファティウス議長としてフランク王国全土対象とする教会会議ローマ教皇召集開かれた751年ピピンは、キルデリク3世退位させて、ピピン3世が自ら王位についた。あらかじめ教皇ザカリアス意向伺い、その支持取り付けた上でソワソン貴族会議召集し豪族たちから国王選出された。さらに司教たちから国王として推戴されボニファティウスによって塗油儀式受けた754年には教皇ステファヌス2世によって息子カールカールマン塗油授けられ王位世襲根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与求められ756年にはランゴバルド王国討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地教皇寄進した(「ピピンの寄進」)。 ピピン3世時代には、キリスト教王国組織結びつき強まった。おそらく763年ないし764年改訂された「100章版」サリカ法典序文では、キリスト教倫理王国の法意識中心に据えフランク人選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念見られる。またピピン3世王国集会司教修道院長参加させることとし、さらにこれらの聖界領主一定の裁判権認めた一方でこれらの司教修道院長任命権カロリング朝君主掌握していた。 [先頭へ戻る]

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