国王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 14:03 UTC 版)
「フランチェスコ2世 (両シチリア王)」の記事における「国王として」の解説
1859年2月3日、フランチェスコはバイエルン女公マリー・ゾフィー(マリーア・ソフィア)と結婚した。同年5月22日、父の急死によって23歳で王位を継ぎ、両シチリア王フランチェスコ2世となった。 国王としてはわずか1年の統治期間しか持たなかったため、具体的な行動はあまり多くはない。その中でも特筆に値する出来事として、宰相にサレント出身のカルロ・フィランジェーリを抜擢したことが挙げられる。フィランジェーリはサヴォイア家が北イタリアを統一したのを目の当たりにすると、積極的にサルデーニャと同盟を結ぶための働きかけを行った。当初は南イタリアまで統一するかどうか検討の段階にあったサルデーニャ王国側も、南北同盟によるイタリア地方の対オーストリア体制確立を前向きに検討して、実際にカヴール首相とフィランジェーリとの交渉が行われていた。 軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。 1860年、カヴール首相とは両シチリアとサルデーニャが同盟を結んだ上で教皇領(ローマ市を除く)を分割併合する同盟案を提示した。フィランジェーリは王にこれを打診したが、信心深いフランチェスコ2世は教会と対立することを嫌って同盟案を拒絶した。次いでフィランジェーリは国の近代化のために憲法の復活を求めたが、フランチェスコ2世にまたも反対され、宰相を辞任した。
※この「国王として」の解説は、「フランチェスコ2世 (両シチリア王)」の解説の一部です。
「国王として」を含む「フランチェスコ2世 (両シチリア王)」の記事については、「フランチェスコ2世 (両シチリア王)」の概要を参照ください。
国王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:03 UTC 版)
「カロル1世 (ルーマニア王)」の記事における「国王として」の解説
カロル1世は自分の興した王朝の威信を絶えず気にしていた。王妃エリサベタは、『彼は眠るときでも王冠を被っている。』と揶揄している。カロルは非常に几帳面で、自分を取り巻く誰に対しても自分のやり方を押しつけようとした。また、ルーマニア公、ルーマニア王として自分の職務に献身的であったけれども、自身のドイツ人としてのルーツを決して忘れなかった。48年間に及ぶ在位期間、カロルはルーマニアが独立を獲得するのを助け、その威信を高め、ほころびが見えていた国の経済を縫い直し、王朝を創設した。カルパチア山脈の町シナヤに彼が建てたドイツ風のペレシュ城は、現在は人気の観光地となっている。露土戦争後、ルーマニアがドブルジャ地方を獲得すると、新しく獲得した地域とを結ぶためフェテシュティとチェルナヴォダの間のドナウ川に橋を架けるよう命じた。
※この「国王として」の解説は、「カロル1世 (ルーマニア王)」の解説の一部です。
「国王として」を含む「カロル1世 (ルーマニア王)」の記事については、「カロル1世 (ルーマニア王)」の概要を参照ください。
- 国王としてのページへのリンク