ピピンの宮廷革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:24 UTC 版)
「ピピン3世 (フランク王)」の記事における「ピピンの宮廷革命」の解説
741年に父のカール・マルテルが死去し、権力はピピンと兄のカールマンの2人に継承された。庶子のグリフォにも割り当てがあった可能性はあるが、この異母弟はピピンとカールマンによってヌシャトー(en)に軟禁された。また、743年にはピピンとカールマンはメロヴィング朝のキルデリク3世を国王に擁立した。747年に兄カールマンは自ら修道院での隠棲を望んでアウストラシア宮宰を辞したため、ピピンは宮宰としてフランク王国の実権を握った。そして彼はローマ教皇ザカリアスに「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得た。これを背景に751年11月、ピピンはソワソンでフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され、マインツ大司教ボニファティウスによって塗油された。キルデリク3世は髪を切り落とされサンベルタン修道院に、王子テウデリクはサン=ヴァンドリーユ修道院にそれぞれ幽閉され、メロヴィング朝は断絶した。 ピピンは多くの土地を征服し、その権威はクローヴィス1世以来最も高まっていたが、754年にローマ教皇ステファヌス2世が彼をローマ貴族(パトリキ)に叙し、パリのサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油したことで更に増した。このときピピンは王位の世襲を望み、ステファヌス3世は息子のカールとカールマンにも塗油を行なった。
※この「ピピンの宮廷革命」の解説は、「ピピン3世 (フランク王)」の解説の一部です。
「ピピンの宮廷革命」を含む「ピピン3世 (フランク王)」の記事については、「ピピン3世 (フランク王)」の概要を参照ください。
- ピピンの宮廷革命のページへのリンク