教会政策
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カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。 一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。
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教会政策
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カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた。742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式を受けた。754年には教皇ステファヌス2世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。 ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。
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教会政策
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「ヴァルテラント帝国大管区」の記事における「教会政策」の解説
ヴァルテラント帝国大管区の教会は、公法上の法人(Körperschaft des öffentlichen Rechts)としての法的地位を奪われ、私法上の法人(privatrechtliche Vereine)としてのみ取り扱われた。「大管区外の集団」が組織に加入することは禁じられ、さらにはドイツとポーランド人はもはや一つの教会を共にしてはならない、と定められた(ナショナリティ所属の原則)。ナチス国民厚生団の独占的地位を守るために、福祉活動は禁止された。神学校や修道院は「ドイツの倫理と住民政策と相いれないため」解散され、専任の聖職者という職業は以後、許可されなかった。教会は、「聖域」を除いて財産の所有を禁じられ、会費以上の寄付も禁じられた。
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教会政策
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「ヴェネツィア領モレア」の記事における「教会政策」の解説
ヴェネツィアは住民との衝突を避けるため、現地のギリシャ正教会をほぼそのまま残した。しかしギリシャ正教の長であるコンスタンディヌーポリ総主教はオスマン帝国のスルターンの庇護下にあるため、ヴェネツィアはギリシャ正教会への不信を捨てられず、総主教への収入を制限したり、モレアの聖職者を総主教ではなく現地の教区で選出させるよう要求したりして総主教の影響力を弱めようとした。しかし、このモレア住民とコンスタンディヌーポリ総主教の関係を弱めようとする取り組みはうまくいかなかった。 一方でヴェネツィア当局は、カトリック教会の普及にも力を注いだ。領内のモスクを改修したり新築したりして教会を増やし、モレア内の様々な教派から修道僧を集めるなどした。1708年にはモドンにアルメニア・カトリック教会メヒタリスト派の教会が設立された。これはオスマン帝国による再征服後の1715年にヴェネツィア本国のサン・ラッザロ・デッリ・アルメニに移転した。モレアのカトリック教会は、コリントス大司教の管轄下におかれた。
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教会政策
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614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については、王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と、教会への妥協であり王権の衰微であるという見解があり、アンリ・ピレンヌは前者の見解を取った。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策の転換期といえる。クロタール2世は、アウストラシアのゲルマン貴族に支持されており、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した 。一方、王妃ブルンヒルドを支持した従来のガロ・ローマン的セナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かった。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認できる。ロワール川以南では同時期40回を数えたのに対し、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回のみであり、ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も、セナトール貴族中心から7世紀を境にゲルマン貴族が目立つようになってくる。 ゲルマン貴族が司教職に進出した背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となり、多くのゲルマン人司教の養成に成功したことである。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている。 H. ヴィエルツボルスキーの研究によると、教会会議に参加する司教のローマ名と非ローマ名の割合が7世紀を境に大きく変化した。6世紀前半には出席者はほぼ全員がローマ名であったが、6世紀後半になると非ローマ名が増加し、7世紀には非ローマ名が約半数を占めている。
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