ローマへの帰還と急死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:45 UTC 版)
「ヨハネス12世 (ローマ教皇)」の記事における「ローマへの帰還と急死」の解説
オットー1世がローマを発ったのち、すぐにヨハネス12世はローマへ帰還した。そして、ローマで起こったヨハネス支持派の暴動に乗じ、レオ8世を追放して復位を宣言したものの、間もなく27歳の若さで脳卒中で死去した。964年5月のことであった。ヨハネス12世の突然の死について、当時のローマでは、情事を交わした人妻の夫によって殺されたという噂が流れた。 ヨハネス12世の治世下、ローマ教会と教皇の権威は急落した。これにより、ローマ教会において「鉄の世紀」と呼ばれる、ローマ教皇の堕落した時代が始まった。そしてオットー1世は、教皇以下の聖職者の任免権を皇帝が握る、帝国教会政策によって帝国の統治を図る。この状況からの脱却を目指したのがクリュニー修道院による修道院改革運動であり、グレゴリウス7世のグレゴリウス改革と叙任権闘争であった。
※この「ローマへの帰還と急死」の解説は、「ヨハネス12世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「ローマへの帰還と急死」を含む「ヨハネス12世 (ローマ教皇)」の記事については、「ヨハネス12世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。
- ローマへの帰還と急死のページへのリンク