ローマへ
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「パウルス・マヌティウス」の記事における「ローマへ」の解説
1561年、教皇ピウス4世はパウルスをローマに招待し、年間500ドゥカートの俸給を提供するとともに、ローマでの印刷所の設立と維持を約束した。出版による利益は、パウルスとローマ法王庁財務省の間で分配されることになっていた。パウルスはこの招待を受け、後の人生の大部分をローマの街で、様々な運命を辿ることになる3人の教皇の下で過ごした。バチカンは、アルプスを越えてプロテスタントの出版物の影響力が強まっていることに対抗するため、印刷所を有効活用しようとしていた。彼がStamperia del Populi Romano(「ローマ人の印刷所」の意)で出版したローマ版は、神学や聖書・教理学のラテン語作品が中心であった。例としては、 レジナルド・ポールのDe ConcilioとReformatio Angliae(いずれも1562年)、トリエント公会議の公式出版物であるCanones et decreta(1564年)、「禁書目録 Index Librorum Prohibitorum」(1564年)、「カテキズム Catechismus」(1566年)、Breviarium Romanum(1568年)などである。健康状態が思わしくなかったこと、ヴェネツィアに商業的利益を残してきていたことに加え、教皇ピウス5世が事業に関心を示さなかったことにより、パウルスは1570年には9年間滞在したローマを離れ、ヴェネツィアに戻る準備をした。
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ローマへ
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キリスト教徒の両親の間に生まれたペトロ岐部は、13歳で有馬のセミナリヨに入学した。1606年、イエズス会入会を志して「カスイ」と号した。イエズス会の諸資料において「ペトロ・カスイ岐部」と書かれる。 1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭(神父)になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学んだ。しかし、マカオの上長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西、ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航した。マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこから岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たした。ローマにたどりついたのは出発から3年が経った1620年のことであった。 すでにマカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていたが、ローマでイエズス会士による審査を受けた岐部は、司祭にふさわしい適性と充分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭に叙階された。さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院(イタリア語版)で2年間イエズス会士としての養成を受け、リスボンに赴いて同地で誓願を宣立した。1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出る。はるか喜望峰を回り、翌1624年ゴアにたどりついた。
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ローマへ
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フィリッポ・ネリは、商売を学びつつも、自分の一生をいかに生きるべきか悩み、モンテ・カッシーノの教会に通う日々が続く。そこで、神への祈りに生きるべきであると確信し、ローマに出た。18歳の時である。 彼は、ローマ在住のフィレンツェ貴族の子弟の家庭教師をしながら、聖アウグスチノ修道会にて学びつつ、病院や救貧院での奉仕を始める。彼が理想とするのは、祈りを中心とする生活であった。しかし、修道院において聖職者になるための勉強をする時間が、フィリッポ・ネリにとって、祈りの時間を削ることになると考えさせるようになる。彼は、修道院での勉強に終止符を打ち、カタコンベで独り祈り、奉仕をする生活を始める。ただし、トマス・アクィナスの神学大全を学ぶことは欠かさなかった。
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