ローマの盾とは? わかりやすく解説

ローマの盾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 23:09 UTC 版)

クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の記事における「ローマの盾」の解説

ファビウス独裁官として任期が切れると、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスマルクス・アティリウス・レグルスの両執政官指揮権返上された。翌紀元前216年ガイウス・テレンティウス・ウァロルキウス・アエミリウス・パウルス両名執政官任命された。ファビウス消極策に否定的だったウァロは、ハンニバルに対して決戦挑んだが、カンナエの戦い逆に壊滅的な打撃受けた。ここに至って元老院民衆も、ハンニバル正面から挑んで勝てないと気がつき、ファビウス戦略正しさ認めたクンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心周到」といった敬称へと意味を変えた紀元前215年正規執政官に選出されたルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス就任前ガリア人との戦い死亡しローマの剣と呼ばれるマルクス・クラウディウス・マルケッルス補充執政官選出された。しかし、マルケッルス選挙不備があったため辞任し新たな補充執政官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムス選ばれた。ファビウスはまずカレス(現カルヴィ・リゾルタ)に駐留し同僚合流後カプア周辺荒らし、プテオリ(現ポッツオーリ)を要塞化した。 紀元前214年ファビウスマルケッルスと共に執政官に選出され、再び持久戦略展開した以降イタリア半島ハンニバルローマ軍は、小競り合いこそするものの、決定的な衝突をすることはなかった。戦場シチリア島イベリア半島北アフリカへと移っていったのであるファビウス目論見どおり、孤立したハンニバルとその軍隊弱体化していき、やがてアフリカへ帰還余儀なくされた。 ファビウス軍事的成功としては紀元前209年タレントゥム制圧上げられるが、これは城方内応よるもので、彼の戦果とするのは無理があるかもしれないこのように目立った武功はないが、かといって彼の軍事的才能否定されるわけではないファビウス真骨頂戦略にあったからである。彼は独裁官務めた後、三度執政官に選出されている。その優れた指導力防御重視する戦略から"ローマの盾"と称された(対してマルケッルスは「ローマの剣」と称された)。 ファビウススキピオ・アフリカヌスアフリカ遠征には、マルクス・ポルキウス・カトとともに反対していた。これはファビウスが、ハンニバルイタリア半島からの排除最優先としていたためと考えられている。そしてスキピオ大活躍によりポエニ戦争終結するのを見ることなくファビウス他界した

※この「ローマの盾」の解説は、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の解説の一部です。
「ローマの盾」を含む「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の記事については、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の概要を参照ください。

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