ローマの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 06:02 UTC 版)
カルタゴ、ローマ両軍ともに、来るべき戦争に備えて兵士の動員を行っていた。ハンニバルがカルタゴ軍の司令官となり、ローマ元老院は軍の編成を決定した。 おそらくは紀元前220年-紀元前219年に起こった第二次イリュリア戦争に備えたためであるが、紀元前218年の時点でローマ海軍はすでにその動員が完了しており、220隻の五段櫂船を有していた。執政官(コンスル)ティベリウス・センプロニウス・ロングスは2個軍団(歩兵8,000及び、騎兵600)に加えて同盟国歩兵16,000と同盟国騎兵1,600を指揮し、160隻の大型軍艦と12隻の小型ガレー船と共にシチリア、さらにはアフリカへと向かうように命令を受けていた。もう一人の執政官であるプブリウス・コルネリウス・スキピオはハンニバルのイタリア侵入を阻止すべく、2個軍団に加え、14,000の同盟国歩兵と1,600の同盟国騎兵を率い、その輸送のために65隻の艦艇を有していた。ルキウス・マンリウスも2個軍団と同盟軍歩兵10,000、同騎兵1,000を与えられていた。北イタリア(ガリア・キサルピナ)のガリア人のボイイ族とインスブル族(en)は、ローマ殖民都市であるプラケンティア(現在のピアチェンツァ)とクレモナを建設していた入植者を攻撃し、またムティナ(現在のモデナ)に小規模なローマからの救援軍を押し込めた。このため、スキピオに与えられる予定であった1個軍団と同盟国軍が法務官(プラエトル)ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスに率いられ、ムティナの救援に派遣された。このため、新しい軍団を編成する必要が生じ、これがスキピオの出発を遅らせた。
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