ティベリウス・センプロニウス・ロングス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/28 14:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ティベリウス・センプロニウス・ロングス Ti. Sempronius C. f. C. n. Longus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前210年 |
出身階級 | プレブス |
一族 | ロングス |
氏族 | センプロニウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前218年) レガトゥス(紀元前215年) シビュラの書管理委員(不明-紀元前210年) |
指揮した戦争 | 第二次ポエニ戦争(アルプス、トレビア) |
後継者 | ティベリウス・センプロニウス・ロングス (紀元前194年の執政官) |
ティベリウス・センプロニウス・ロングス(ラテン語: Tiberius Sempronius Longus, - 紀元前210年)は、共和政ローマの第二次ポエニ戦争期の政治家・軍人。紀元前218年にプブリウス・コルネリウス・スキピオとともに執政官(コンスル)を務め、ハンニバルの進攻を阻止しようとした。
紀元前218年にコンスルに任命されたセンプロニウスはアフリカに赴き、同僚のスキピオはハンニバルの行動を牽制するためにヒスパニアに赴向くように命じられた。センプロニウスはシチリア島のリリュバエウム(現在のマルサーラ)より出立、マルタ島を攻略する。しかしながらその直後に同僚コンスルのスキピオがティキヌスの戦いでハンニバルに敗北、自身も負傷し、元老院はセンプロニウスを援軍として送る。到着後、センプロニウスはスキピオと対立し、ハンニバルに対して果敢に攻めるが、トレビアの戦いで敗北する。センプロニウスと彼の配下の10,000人はハンニバルの弟マゴ率いるカルタゴ軍の包囲を受けながらもカルタゴ軍の後陣を突破、からくも脱出する。
紀元前217年1月にはセンプロニウスはコンスルの選挙を見届けるためにローマに帰還、コンスル職をガイウス・フラミニウスに委譲し、すぐにローマ軍の冬営地に戻った。紀元前215年にはハンノ率いるカルタゴ軍と交戦、南イタリアのカルタゴ勢力をブルッティウム地方へ駆逐し、ルカニアの都市を再びローマ傘下にする契機を作った。
同名の子、ティベリウス・センプロニウス・ロングスは父の死後シビュラの書管理委員を継ぎ、父と同様コンスルとなり、ガリア地方を治めた。
関連項目
公職 | ||
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先代: ルキウス・アエミリウス・パウッルス I マルクス・リウィウス・サリナトル I | 執政官 同僚:プブリウス・コルネリウス・スキピオ 紀元前218年 | 次代: グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス ガイウス・フラミニウス II |
ティベリウス・センプロニウス・ロングス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:11 UTC 版)
「アド・アストラ -スキピオとハンニバル-」の記事における「ティベリウス・センプロニウス・ロングス」の解説
ローマの将。父スキピオと同僚の執政官。父スキピオがティキヌスの戦いで負傷した後に援軍を率いて合流し、続くトレビアの戦いでは代わって指揮を執った。平民の出身で、貴族への強い対抗意識を持つ野心家。とはいえ、同様の意識を持つ平民兵達を煽動して士気を昂揚させるなど優れた人心掌握術を持ち、決して単純な男ではない。
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