ハンニバル進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 23:55 UTC 版)
カルタゴ軍がイタリア北部に現れたという知らせはローマに大きな衝撃を与えた。元老院は執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオに2個軍団を与え、急遽迎撃に派遣した。11月、ティキヌス川付近で両軍の指揮官が直接指揮する騎兵同士が会敵し、そのまま戦闘になった。精強なヌミディア騎兵を中心とするカルタゴ軍がローマ騎兵を一蹴し、指揮官スキピオも負傷した。(ティキヌスの戦い) スキピオはピアチェンツァまで軍を後退させ、もう1人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスと彼の率いる軍団の合流を待った。カルタゴ軍は南進し、トレビア川を挟んでローマ軍と対峙した。12月18日、ハンニバルは騎兵によってローマ軍を対岸に誘引し、さらに林の中に埋伏させた弟マゴの指揮する騎兵にローマ軍の後方を奇襲させ、大損害を与えた。(トレビアの戦い) この勝利はハンニバルの名声を大きく高めた。ローマに敵対的だったガリアの部族はハンニバルを支持し、彼らの合流によってカルタゴ軍は一挙に50,000まで膨れ上がった。翌紀元前217年、元老院はガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウスを執政官に選出、新たに4個軍団50,000名を動員した。両執政官はそれぞれ2個軍団を率いて北上し、分散してカルタゴ軍を待ち構えたが、ハンニバルは彼らの予想を裏切り、アペニン山脈を越えて南下した。フラミニウスはこれを追撃、セルウィリウスとの挟撃を意図していたが、ハンニバルは逆に各個撃破を狙っていた。カルタゴ軍はトラシメヌス湖畔の隘路と丘陵を利用して、進撃して来たフラミニウス軍を伏撃、多大な損害を与えた。(トラシメヌス湖畔の戦い)こうした戦勝の中でローマ本軍とその捕虜には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時釈放するなど、「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という戦略の元で工作を重ねた。 3度の敗北を喫したローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出し、彼に一切の権限を委ねた。ファビウスはハンニバルとの正面対決を避け、カルタゴ軍の消耗を待つ持久戦をとった。しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスの迂遠な戦略は批判を招き、「クンクタトル(ラテン語でぐず、のろまの意)」というあだ名がつけられた。ファビウスの任期が切れると、元老院は決戦を望む声を反映し、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出した。両名は80,000名の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かった。
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