クィントゥス・ファビウス・マクシムスとは? わかりやすく解説

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クィントゥス・ファビウス・マクシムス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 23:09 UTC 版)

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クィントゥス・ファビウス・マクシムス
Q. Fabius Q. f. Q. n. Maximus Verrucosus
ウェッルコススの石像(ウィーンシェーンブルン宮殿
出生 紀元前275年
死没 紀元前203年
出身階級 パトリキ
氏族 ファビウス氏族
官職 アウグル(紀元前265年-203年)
クァエストル(紀元前237年、236年)
アエディリス・クルリス(紀元前235年)
執政官(紀元前233年、228年、215年、214年、209年)
ケンソル(紀元前230年)
インテルレクス(紀元前222年)
独裁官(紀元前221年、217年)
神祇官(紀元前216年以降)
レガトゥス(紀元前213年)
指揮した戦争 第二次ポエニ戦争アゲル・フレルヌスゲロニウムカプア第二次タレントゥム
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クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートル (ラテン語: Quintus Fabius Maximus Verrucosus Cunctator, 紀元前275年 - 紀元前203年) は、共和政ローマの政治家、将軍。主要政務官を歴任し、第二次ポエニ戦争で活躍、持久戦略でハンニバルを苦しめ、「ローマの盾」と称された。なお、持久戦略をファビアン戦略(フェビアン戦略)、特に暴力革命プロレタリア独裁などに頼らない社会改良主義を志向した運動をフェビアニズムと呼ぶのはその名に由来する。

よく知られた二つ名のクンクタートル (ラテン語: Cunctator) は、ラテン語で「のろま」「ぐず」といった意味である。持久戦略を採ったファビウスに付けられたあだ名で、当初は否定的な意味合いであった。また、ウェッルコスス (ラテン語: Verrucosus) は「いぼ」という意味である。

生涯

初期のキャリア

クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、パトリキの中でも名門のファビウス氏族に生まれた。名門らしく10歳でアウグルに就任し、その後死ぬまで62年間務めている[1]

第一次ポエニ戦争に参加したが、この時の彼の詳しい動きは伝わっていない。戦後、彼は政治家として頭角を現し始め、恐らく紀元前237年にはクァエストルに就任し[2]紀元前235年にはアエディリス・クルリスに就任と[3]、順調にクルスス・ホノルムを駆け上がり、第二次ポエニ戦争以前に、執政官を二度、ケンソルを一度務めた。

第二次ポエニ戦争

紀元前219年カルタゴの将軍ハンニバルが、ローマの同盟相手であるサグントゥムを攻撃した。サグントゥムからの救援要請を受けたローマは、カルタゴへ攻撃停止を求める使節を派遣、ファビウスはこれに加わった。カルタゴがローマの要求を拒否し、さらにサグントゥムが陥落したとの一報を受け取ると、ファビウスは使節団を代表してカルタゴへ宣戦を布告した。第二次ポエニ戦争の開幕である。ローマに帰還したファビウスは、紀元前217年トラシメヌス湖畔の戦いによるローマ軍の大敗を受け、事態収拾のために元老院によって独裁官に任命された。通常は執政官による任命という手続きをとるので、これは異例のことだった。

ファビウスは、ハンニバルに率いられたカルタゴ軍の強さを理解し、これに正面から決戦を挑むのは無謀だと考えていた。そこで彼は、カルタゴ軍が根拠地から遠く離れており、兵站に弱点を抱えていることに目をつけた。補給を略奪に頼り、後方からの増援も期待できないカルタゴ軍は、ローマが消耗戦を強いれば、遠からず戦力を衰弱させていくと考えたのである。そこでファビウスは、カルタゴ軍の進軍を無理に阻止しようとせず、影のようにその後を追尾し、消耗するのを待った。さらに、カルタゴ軍の予想進軍路上の土地は、略奪を防ぐために事前に焦土化した。このようにして敵の消耗を待つ持久戦略は、後にファビアン戦略と呼ばれるようになった。

クンクタトル

しかし、ファビウスのこうした持久戦略は多くの批判を招いた。焦土化される土地の人々はもちろんのこと、政敵であるマギステル・エクィトゥムマルクス・ミヌキウス・ルフスや、ローマの元老院まで彼の消極的姿勢を非難した。クンクタートル(のろま)というあだ名を付けられたのはこの時である。さらにファビウスは、カンパニアから北へ向かうカルタゴ軍を途上で攻撃しようとするも、捕捉に失敗するという過ちを犯した。ファビウスはローマへ召還され、ミヌキウスが一時的に軍の指揮を執ることになった。

ミヌキウスはファビウスの戦略を無視し、さっそくカルタゴ軍に攻撃を仕掛け、少なからぬ戦果を上げた。これによって彼は元老院や民衆から賞賛され、ファビウスが軍に復帰してからも、そうした支持を背景に軍の指揮権を要求するようになった。やむなくファビウスは軍の一部を分割し、ミヌキウスに指揮を委ねた。

その後、ラリヌム (Larinum) と呼ばれる町(現モリーゼ州ラリーノ)に到着した時点で、ハンニバルが谷を一つ挟んだゲロニウム (Geronium) にいることがわかった。ミヌキウスは正面からの攻撃を決意し、先行してカルタゴ軍に攻撃をかけた。しかし、これはハンニバルの罠だった。ミヌキウスと彼の部隊は、カルタゴ軍の逆襲によって多大な損害をこうむった。ファビウスが救援に急行したため、ハンニバルは早々に後退し、ミヌキウスは危ういところを救われた。大敗を喫したミヌキウスは、自らの過ちを認め、ファビウスの野営地に向かい、「父が私に与えた命を、今日、あなたは救ってくれた。あなたは私の第二の父である。私はあなたを優れた指揮官として認めます」と言ったとされる(ゲロニウムの戦い)。

ローマの盾

ファビウスの独裁官としての任期が切れると、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスとマルクス・アティリウス・レグルスの両執政官に指揮権が返上された。翌紀元前216年ガイウス・テレンティウス・ウァロルキウス・アエミリウス・パウルスの両名が執政官に任命された。ファビウスの消極策に否定的だったウァロは、ハンニバルに対して決戦を挑んだが、カンナエの戦いで逆に壊滅的な打撃を受けた。ここに至って元老院も民衆も、ハンニバルに正面から挑んでも勝てないと気がつき、ファビウスの戦略の正しさを認めた。クンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心、周到」といった敬称へと意味を変えた。

紀元前215年の正規執政官に選出されたルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスは就任前にガリア人との戦いで死亡し、ローマの剣と呼ばれるマルクス・クラウディウス・マルケッルスが補充執政官に選出された。しかし、マルケッルスは選挙に不備があったため辞任し、新たな補充執政官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスが選ばれた。ファビウスはまずカレス(現カルヴィ・リゾルタ)に駐留し、同僚と合流後はカプア周辺を荒らし、プテオリ(現ポッツオーリ)を要塞化した[4]

紀元前214年、ファビウスはマルケッルスと共に執政官に選出され、再び持久戦略を展開した。以降、イタリア半島のハンニバルとローマ軍は、小競り合いこそするものの、決定的な衝突をすることはなかった。戦場はシチリア島イベリア半島北アフリカへと移っていったのである。ファビウスの目論見どおり、孤立したハンニバルとその軍隊は弱体化していき、やがてアフリカへの帰還を余儀なくされた。

ファビウスの軍事的成功としては紀元前209年のタレントゥム制圧が上げられるが、これは城方の内応によるもので、彼の戦果とするのは無理があるかもしれない。このように目立った武功はないが、かといって彼の軍事的才能が否定されるわけではない。ファビウスの真骨頂は戦略面にあったからである。彼は独裁官を務めた後、三度執政官に選出されている。その優れた指導力と防御を重視する戦略から"ローマの盾"と称された(対してマルケッルスは「ローマの剣」と称された)。

ファビウスはスキピオ・アフリカヌスのアフリカ遠征には、マルクス・ポルキウス・カトとともに反対していた。これはファビウスが、ハンニバルのイタリア半島からの排除を最優先としていたためと考えられている。そしてスキピオの大活躍によりポエニ戦争が終結するのを見ることなく、ファビウスは他界した。

脚注

参考文献

  • T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目

外部リンク

公職
先代:
ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス
スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガ
執政官 I
同僚:マニウス・ポンポニウス・マト
紀元前233年
次代:
マルクス・アエミリウス・レピドゥス
マルクス・プブリキウス・マッレオルス
先代:
ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス II
グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス
執政官 II
同僚:スプリウス・カルウィリウス・マクシムス・ルガ
紀元前228年
次代:
プブリウス・ウァレリウス・フラックス
マルクス・アティリウス・レグルス
先代:
ルキウス・アエミリウス・パウッルス II
ガイウス・テレンティウス・ウァロ
補充執政官 III
同僚:ティベリウス・センプロニウス・グラックス(正規執政官)
紀元前215年*
次代:
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートル IV
マルクス・クラウディウス・マルケッルス III
先代:
ティベリウス・センプロニウス・グラックス I
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス(補充) III
執政官 IV
同僚:マルクス・クラウディウス・マルケッルス III
紀元前214年
次代:
クィントゥス・ファビウス・マクシムス(子)
ティベリウス・センプロニウス・グラックス
先代:
マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス II
マルクス・クラウディウス・マルケッルス IV
執政官 V
同僚:クィントゥス・フルウィウス・フラックス
紀元前209年
次代:
マルクス・クラウディウス・マルケッルス V
ティトゥス・クィンクティウス・クリスピヌス
先代:
ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス
クィントゥス・フルウィウス・フラックス
紀元前231年
監察官
同僚:マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス
紀元前234年 XLI
次代:
ガイウス・クラウディウス・ケント
マルクス・ユニウス・ペラ
紀元前225年XLII

クィントゥス・ファビウス・マクシムス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:52 UTC 版)

アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事における「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の解説

クィントゥス・ファビウス・マクシムスはローマ貴族パトリキ)であるファビウス氏の一員で、独裁官選出必要性訴えていたが、ケントゥリア民会支持得て独裁官選出された。独裁官任期は6ヶ月であったファビウスは既に58歳であり、ハンニバル比較する30歳年長であったが、顔にいぼがあったため、「あばた顔(ウェッルコスス)」というあだ名付けられていた。ファビウス第一次ポエニ戦争従軍、また紀元前233年紀元前228年執政官に選出され、紀元前230年には監察官ケンソル)、またリグリア人対す勝利にも貢献した見られていた。通常独裁官自身副官を選ぶが、彼の政敵であったマルクス・ミヌキウス・ルフスen平民出身紀元前221年執政官)が副官としてつけられた。したがってファビウス実際地位独裁官代理のようなものであったが、任期中ファビウス独裁官として権力十分に活用した独裁官選出された後、ファビウスローマ市民士気回復し、さらにローマ防衛準備腐心した。まずは国政関連する宗教的行事と、民事手続きの遵守細心の注意払い市民士気上のために、トラシメヌス湖畔での敗戦戦死した執政官フラミニウス宗教的行事無視したことが原因であると非難した元老院ファビウス示唆によりシビュラの書元老院管理していた神託書)を参照し法務官プラエトル)の一人生贄捧げてローマ神々なだめる役が割り当てられた。ハンニバル実際位置や(ローマ直接攻撃はしないという)意図知らなかったため、ファビウス神事行った後に、ハンニバルラティウムローマを含むイタリア中央西地方侵攻対す準備開始した。 市の城壁修復され、ミヌキウスが「迎撃委員会」の準備命じられ、2個ローマ軍団と2個同盟国軍団および随伴騎兵部隊近隣のティブル(現在のティヴォリ防衛のために編制された。ラティウム地域城壁持たない都市放棄され住民城郭都市移住するように命令された。カルタゴ軍進軍困難にするため、主な橋破壊された。ハンニバルローマ攻撃意図が無いことが分かると、北方派遣されていた執政官セルウィリウスの軍団ラティウムに戻るよう命令したファビウス自身ローマ離れナルニア現在のナルニ)の近くあるいはオクリクラム(現在のオトリーコリ南方でセルウィリウスから軍の指揮引き継ぎ、さらにティブルでミヌキウスの軍団合わせてアッピア街道沿いにアプリア現在のプッリャ)に進んだ。セルウィリウスはオスティアで副執政官として海軍指揮執ることとなったローマ陸軍集中完了したため、ファビウス計画次の段階、すなわちカルタゴ陸軍勝利すること、を実行する必要があった。ファビウス子供時代大人しく人の言うことに従ったため、「子羊」とあだ名されていたが、次の数ヶ月彼の活動は、彼がそのあだ名のように最大限やってのけたとの印象周囲与えた

※この「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の解説は、「アゲル・ファレルヌスの戦い」の解説の一部です。
「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」を含む「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事については、「アゲル・ファレルヌスの戦い」の概要を参照ください。

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