執政官に選出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:48 UTC 版)
「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「執政官に選出」の解説
紀元前205年、民衆からの支持を得たスキピオは31歳にして執政官に選ばれた。しかし元老院によってシチリア島以南への渡航は禁じられており、指揮する軍団も与えられていなかった。この時期のポエニ戦争におけるローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスが唱える非攻勢戦術をとっており、ハンニバルの活動地域は南イタリアのカラブリア地方に限定されていた。しかしハンニバルの率いる軍事力は健在であり、スキピオが唱える基本戦略の攻勢への転換は、元老院には到底受け入れられるものではなかった。 そこでスキピオは市民の中から義勇兵を募集し、シチリア島で兵の訓練に日を費やす。彼の呼びかけは全イタリアに届き、とくにカンナエの戦いで生き残った者たちが雪辱のために応募したという。 スキピオは若い頃に経験した敗戦を通じてハンニバルの用兵を目の当たりにしており、機動力に優れた騎兵の活用が鈍重な重装歩兵への攻撃に有効であることを理解していた。またカルタゴ軍の内情、すなわち傭兵に頼っており、騎兵兵力はヌミディア騎兵に頼っているという欠点を見抜いていた。さらにスキピオは自軍ローマの騎兵の質も理解していた。ローマ軍の騎兵戦力は現地の諸部族か上流階級のローマ人かのどちらかであり、諸部族は忠誠心の点で当てにならず、ローマ人騎兵はただ歩兵との違いを誇示したいがために馬に乗っているだけで実戦力として不安だという欠点がある。この状況の中でいかに精強な騎兵を錬成するかという課題があった。 ある逸話によると、スキピオが思いついた解決法のひとつに次のようなものがある。シチリア島の支配階級は古来外部からの支配を好まず(ローマに隷属したのも第一次ポエニ戦争以降のことである)、激しく抵抗していた。スキピオはそのプライドに目をつけ、彼らの中で馬と武具を支給できるものを騎兵に取立ててローマ軍の中に編入し、多数の騎兵を作り上げたという。 元老院はシチリア島を視察してスキピオの兵力が錬成されているのを確認した。そこでスキピオは元老院に北アフリカへの渡航許可を要請したが、元老院の主導権を握るファビウスはこれに反対する。連敗を重ねた苦境の中で陣頭指揮を取っていたファビウスは、ローマの意表に出るハンニバルの用兵を恐れ、攻勢に出ればまたカンナエのようにせっかく養成した兵士を無駄に死なせるのではないかと危惧していた。また以前からスキピオ個人はローマ人にあるまじきギリシア文化への傾倒ぶりを非難されており、まだ年若いこともあってスキピオは元老院の古参議員たちの羨望と嫉妬との対象でもあった。しかしアフリカ遠征の吉凶をキュベレ神に伺ったところ神託が吉と出たこともあり、スキピオは北アフリカへの渡航のみは許された。ただし「ローマ軍の正規の作戦として認めない」という元老院の露骨な態度は明らかで、経済的な支援や援軍は望むべくもなかった。
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