共和政時代
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「ブラジルの地方行政区分」の記事における「共和政時代」の解説
1943年、ブラジルの第二次世界大戦への参戦に伴い、ヴァルガス政権は、国境に位置する戦略的に重要な6地区、すなわち、Ponta Porã、イグアス(英語版)、アマパー、リオ・ブランコ、Guaporé、フェルナンド・デ・ノローニャ諸島を分離し、直轄統治することを決定した。戦後、Ponta Porã とイグアスは元に戻されたが、他の4地区は準州のまま(リオ・ブランコはロライマと、Guaporé はマレシャル・ロンドン(英語版)を記念してロンドニアと改名)とされた。 1960年、新首都ブラジリアを置くため、ゴイアス州から矩形の領域が分離されて連邦直轄区とされた。同時に、それまでの連邦直轄区の領域、すなわちリオ・デ・ジャネイロとその周辺はグアナバラ州とされた。1962年、アクレ準州は州へ昇格した。 1975年、グアナバラ州はリオ・デ・ジャネイロ州に自治体(Município)として編入され、リオ・デ・ジャネイロ市が州都となった。1977年、マト・グロッソ州の南部が分離されて、カンポ・グランデ市を州都とするマト・グロッソ・ド・スル州となった。 1981年12月22日、ジョアン・バチスタ・デ・オリヴェイラ・フィゲイレード(英語版)大統領によりポルト・ヴェーリョを州都とするロンドニア州が創立され、1982年1月4日に施行された。 ブラジル1988年憲法(ポルトガル語版)の区分制度は現在に連なる。 連邦直轄の準州の定義は規定に残されているが、ロライマとアマパーが州に昇格し、フェルナンド・デ・ノローニャ諸島がペルナンブーコ州に統合されたため、現在では存在しない。 同時に、ゴイアス州北部が分離されてMiracema do Norteを州都とするトカンティンス州とされた。1989年7月、州議会は州の地理的中心にパルマス市を建設するプロジェクトを承認した。 1534年世襲カピタニア(英語版) 1573年2州(estado) 1709年当初の7県(プロヴィンス/província) 1789年ミナスの陰謀 1822年ブラジル帝国の県(província) 1889年ブラジル合衆国の州 1943年国境地区の準州 1990年現在の連邦構成州および連邦直轄区
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共和政時代
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共和政時代では、元老院は建前上執政官の諮問機関であったが、名望家や現職および元職の要職者のほとんどを議員とし、また名望家は多数のクリエンテスを抱えることにより立法機関である市民集会に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関であった。ローマを指す言葉にSPQRがあるが、これは "Senatus Populusque Romanus"(元老院とローマの市民)の略である。 元老院議員は、過去に会計検査官を務めた人物を対象に、監察官が検討した上で決められていた。例外として、護民官を経験した平民は自動的に議員になれた。 新たに元老院議員となる場合、過去に議員を輩出した家系の出身者であることが有利に働いた(そのため、議員を何人も輩出する家系は次第にノビレスと呼ばれる特権階級を形成していった)。ただしノビレスの方が有利とはいっても、ノビレスであれば自動的に議員になれるわけでもなく、ましてや世襲によってその身分が継承されることもなかった。 議員の多数を占めるノビレスはノブレス・オブリージュの精神の体現者という側面が強く、そのため戦場に赴くことを厭わず、そこで戦死する者も多かった(その最悪のケースがカンナエの戦いである)。加えて古代故に各議員の寿命は短く、また職を担えないほどに老衰した際は自ら身を引く者も多かった。そのため、元老院議員の身分は終身であるにもかかわらず、議員の新陳代謝は十分に機能していた。 ローマで要職を目指す者は、成人(17歳)から約10年に亘る軍隊経験が必須とされていた。元老院議員になった者も例外ではなく、裏を返せば元老院は、軍事及び国政に関する経験や見識を備えたエリートの集団であったと言える。終身制であるが故に1度議員になればその身分を失う不安はなく、そのため各議員には長期的視点に立ってローマの方向性を示すことが期待された(これに対し、官職はほぼ全て選挙で選出される)。 ローマは民主共和政社会であり、執政官の選出、法律の制定など重要事項は市民集会により決定される。元老院は単なる諮問機関であり、権力は持たない。だが実際には、元老院はその権威により政治を主導し、実質は貴族共和制・寡頭制国家であったとされる。
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共和政時代
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共和政時代になるとインテルレクスは、内乱あるいは死去といった理由で執政官が任期を全う出来ない場合、新たに執政官を選出する民会召集のために任命された。それぞれのインテルレクスの任期は王政時代と同じく5日間であった。通例として、民会は最初のインテルレクスには召集されず、大抵の場合2人目か3人目のインテルレクスによって開催されたが、時には11人目や14人目の場合もあった。共和政最初の執政官は、ルクレティアの父スプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌスによって召集された民会で選出された。共和政下のインテルレクスは、少なくとも紀元前482年までには元老院全体から選ばれるようになっており、王政時代のように限られた10人の中から選ばれるものではなくなっていた。しかし、プレブスからの選出はまだ許容されておらず、平民が元老院議員になれるようになっても、パトリキ出身の議員は平民出身者を排除して会合し選出していた。こうしたことから、インテルレクスが執政官選挙に及ぼす影響力についてはもちろん、その選出方法についても護民官の強い反対があったことが見て取れる。 紀元前4世紀中頃には徐々に独裁官が選挙のために任命されることが増えてきたものの、インテルレクスは第二次ポエニ戦争までは時折任命されていた。その後長く任命されることはなかったが、紀元前82年、ルキウス・コルネリウス・スッラの命によりルキウス・ウァレリウス・フラックスが指名され民会を開催、スッラが独裁官に選出された。紀元前55年にもインテルレクスによって民会が開かれ、グナエウス・ポンペイウスとマルクス・リキニウス・クラッススが執政官に選出された。紀元前53年と52年にも任命され、52年にはポンペイウスを単独執政官に選出した。
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共和政時代
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ローマの貴族達は傲慢王タルクィニウスを追放し、王政は終了した。彼らは王が持っていた権力と権威を自身で分かち合うことにして、政務官が選出されることとなった。政務官の最高位は定員2人の執政官(コンスル)であり、他の政務官同様に任期は1年で、連続した再選はできないこととなっていた。危機や緊急の場合は、元老院が一人の独裁官(ディクタートル)を選んで権力を集中させることもあったが、それでも永久に保障された王の権力には比較できなかった。独裁官に5回就任したマルクス・フリウス・カミルスは4度の凱旋式を実施しているが、彼でさえも罪を問われて最後にはローマを追放されている。後の資料によると、紀元前396年の凱旋式において、ユピテルとアポロにのみ許されていた4頭の白馬に戦車を引かせたことが問題視されたとされる。少なくとも、後にはそのような伝承ができた。凱旋将軍の振る舞いは、その同僚貴族達から厳しく監視されており、「1日だけの王」を越えるようないかなる兆候も警戒された。 共和政中期から後期になると、ローマの征服事業に伴う拡大は、政治・軍事的野心家達に格好の自己宣伝の機会を提供することになった。たとえば、ローマ最初の海外遠征となった第一次ポエニ戦争(紀元前264年 -紀元前241年)では、合計16回の凱旋式が実施されている。共和政末期になると、凱旋式はさらに頻繁に実施され、豪華でお互いに競い合うものとなり、その展示の仕方も前回のものを上回るように工夫された(そして大抵は成功した)。ローマ社会と政治において、凱旋将軍を祖先に持つことは、それがはるかな過去の場合であっても、非常に有利であった。共和政末期の政治家・哲学者キケロ(彼自身は先祖に著名人を持たないノウス・ホモであった)もこれを指摘している。 ローマの歴史家達にとって、壮大な凱旋式での見せびらかしは、ローマの伝統である「農民の美徳」を損なうものであった。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、彼の時代(共和政末期から帝政初期)の凱旋式は、「古来の伝統からあらゆる点で逸脱している」と述べている。道徳家達は、対外戦争の成功はローマの権力、安全保障、そして富を増やしたかもしれないが、堕落した貪欲さと浅はかさをもたらしたと嘆いた。リウィウスはこのような堕落は、紀元前187年のグナエウス・マンリウス・ウルソの凱旋式から始まったとしている。そこでは一般市民にガラティアの衣装、フルートを演奏する少女、その他の「魅惑的な晩餐の娯楽」等が提供された。大プリニウスは、ここに「食器棚と1脚テーブル」を追加しているが、ウルソからではなくそれよりやや早い紀元前189年のスキピオ・アシアティクスの凱旋式で「1400ポンドの銀食器と1500ポンドの黄金の器」が用いられたことが、贅沢化の始まりとしている。 グナエウス・ポンペイウスの三度の凱旋式も贅沢で物議をかもすものであった。最初のものは紀元前81年のシキリア属州、紀元前80年のヌミディア王ヒアルバスに対する勝利を讃えたものであったが、元老院の議論は割れた。しかしポンペイウスの庇護者で終身独裁官であったルキウス・コルネリウス・スッラの後押しで許可された。このときポンペイウスは24歳のエクィテス(騎士階級)に過ぎなかったが、これはスキピオ・アフリカヌスの34歳を大幅に上回る最年少記録であった。ローマの保守派は早すぎると反対していたが、多くは彼の若くしての成功を卓越した軍事的才能、神の恵み、彼個人の活力の表れと見ており、熱狂的な支持者も多かった。しかし彼の凱旋式は計画通りには進まなかった。彼の戦車は、アフリカでの勝利を記念して、象が牽引することとなっていたが、これは伝説的なバッカスの凱旋式をも上回るものとなったであろう。しかしその巨体のために象は凱旋門を通ることが出来ず、ポンペイウスは一旦下車して、馬につなぎ変えるまで待たねばならなかった。この失態は彼に対する批判者、また一部の兵士をも喜ばせたであろう。なぜなら、ポンペイウスは自費で募兵した3個軍団を率いていたが、兵士達は給与の支払い問題で反乱寸前であったためである。そうではあっても、支払いに対する彼の確固たる姿勢は保守派の間で彼の評判を高め、ポンペイウス自身もポピュリズム政治の教訓を学んだようである。彼の2回目の凱旋式は紀元前71年であったが(その年には4回の凱旋式が行われ、その最後がポンペイウスのものであった)、その際の部下に対する現金の支払いは過去の全ての記録を上回るとされた。プルタルコスによるとその額は信じられないほど高い。兵士一人当たり6,000セステルティウス(通常の年俸の6倍。0.5リットルのワインが0.5-1セステルティウスで買えた)、士官に対しては500万セステルティウスが支払われた。 ポンペイウスは紀元前61年に、第三次ミトリダテス戦争の勝利を祝う、自身三度目の凱旋式を行った。その規模は彼の競合者達だけでなく、過去の彼自身の凱旋式をも上回るものであった。それまでの伝統では、凱旋式は1日で完了するものであったが、この凱旋式は2日に渡り、贅沢な戦利品の展示を行った。プルタルコスは、この凱旋式はローマの代表者としてのポンペイウスの世界制覇を示すものであり、その業績はアレクサンドロス大王をもしのぐと述べている。大プリニウスの言では、真珠で覆われた「東方の豪華な宝物」のような彼の巨大な彫像は、後の彼の屈辱と暗殺を予言させるものであった。
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共和政時代
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共和政時代、ローマと同盟を結ぶことによる利益がないことから、それらの条約締結相手の一部が不満を抱き、ローマを相手取って同盟市戦争を起こした。結果として紀元前90年にユリウス法 (Lex Julia) が制定され、その条項(共和政による運営)を受け入れた同盟市の住民にはローマ市民権が与えられることになった。全ての同盟市がローマの共和政に吸収される用意ができていたわけではない(例えばヘラクレア・ルカニアやナポリ)。イタリア以外にもフォエデラティは存在した。例えばスペインのカディス(ガデス)やマルセイユ(マッシリア)である。
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共和政時代
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「ジョージ・マンク (初代アルベマール公)」の記事における「共和政時代」の解説
釈放後は議会派のニューモデル軍に属して少将となり、1647年にアイルランドに出兵して転戦、1649年にアイルランド・カトリック同盟の指導者オーウェン・ロー・オニールと和睦を結んで帰国した。続いて翌1650年に議会派の司令官オリバー・クロムウェルに従いスコットランドへ遠征、第三次イングランド内戦におけるダンバーの戦いでジョン・ランバート・チャールズ・フリートウッドらと連携してスコットランド軍を撃破した後はスコットランド駐留軍の指揮を任され、翌1651年のウスターの戦いの際、スコットランド軍が南下しがら空きになった隙にスコットランド各地を転戦して1652年までにスターリング・ダンディー・アバディーン・オークニー諸島などを占領してスコットランドを平定した。翌1653年にクロムウェルが護国卿に就任すると、スコットランド代表として政権に加わりイングランド共和国の有力者となった。 1652年に第一次英蘭戦争が始まると、革命による海軍人材不足を補うためコモンウェルスネイビーに設けられた役職であるゼネラル・アット・シー(英語版)に任命され、翌年にはポートランド沖海戦で重傷を負ったロバート・ブレイクに代ってイングランド艦隊司令長官としてオランダ海軍に立ち向かうことになった。オランダはマールテン・トロンプ提督が迎え撃ったが、マンクはガッバードの海戦に勝利、スヘフェニンゲンの海戦でもトロンプを討ち取り、1654年にウェストミンスター条約を締結、オランダに対してイングランドが優位に立った。戦後はスコットランドに戻り総督として駐屯を続けた。 ジェネラル・アット・シー在任中はブレイクとウィリアム・ペンと共に海軍改革に力を尽くし、艦隊戦術は単縦陣を採用して縦列で相手に集中砲火を浴びせガッバードの海戦で成果を挙げた。この戦術はオランダもスヘフェニンゲンの海戦で採用、やがて単縦陣は世界の海軍の基本陣形となった。また、英蘭戦争を通して海上戦略も確立され、地中海の確保と制海権の獲得など、後にイギリス海軍で重要視される目標が立てられていった。
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