第二次世界大戦への参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 14:00 UTC 版)
「フランクリン・ルーズベルト」の記事における「第二次世界大戦への参戦」の解説
1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米・カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933年に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバチスタ政権、ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡(かいらい)政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国のトルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣政策と表現している。1933年12月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をもたらした。 就任後から1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本と中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた。 1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。アメリカ政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたい、と考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。 また、名目上でもそうしなければならなかった理由として、ルーズベルトは大統領就任前の選挙中から「戦争はしない」という公約を掲げており、対日開戦はその意味でアメリカ国民に対する公約違反だとする批判も存在する。 戦時下のヨーロッパでナチ党のアドルフ・ヒトラー率いるドイツ国防軍に、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、日華事変で日本と戦闘状態にあった中華民国の蔣介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた。 当時、アメリカ政府はイギリスや中華民国に対し多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けることは避けたかった。ルーズベルト自身も選挙では、戦争に介入しないと宣言して当選しており、参戦をしたくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。
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