マニトバ州立法議会での経歴(1936年-40年)
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「ジェームズ・リテリック」の記事における「マニトバ州立法議会での経歴(1936年-40年)」の解説
党の人気が高まっていた1936年の州選挙で、マニトバ州議会議員に当選した。彼の選挙戦の焦点は、州の2%の賃金税の廃止だった。 この選挙で、リテリックはウィニペグの労働者の間でとても人気があった。第一優先票では、独立系社会主義者のルイス・スタッブスに次いで2位となった。当時のウィニペグでは、単記移譲式投票で10人の議員を選出していた。スタッブスは当選が宣言され、2回目の投票では彼の余剰票が移された。リテリックは、スタッブスから十分な票を得て、当選を宣言した。 リテリックは、左派の判事で独立社会主義者として人気のあったスタッブスの盟友とみなしていた。リテリックの主な支持基盤は、ウィニペグの労働者階級であるノースエンドにあった。リテリックの主な支持層は、ウィニペグの労働者階級の北端にあり、市内のユダヤ人社会からもかなりの支持を受けていた。妻のモリーもユダヤ人であった)。 MLAとして、1937年に「Whither Manitoba」と題したスピーチを行った。この演説は後にパンフレットとして発行された。 リテリックは、全国の共産党の主要人物ではなかった。共産党の全国的な活動において、公的に重要な役割を果たすことはなかった。 モスクワへの忠誠心から、1939年後半には、カナダの第二次世界大戦への参戦についての見解を変えていた。9月9日には、ジョン・ブラッケン首相とウィリアム・リヨン・マッケンジー・キング首相に、ナチス・ドイツの侵攻に対抗してポーランドを全面的に支援するよう要請したのである。リテリックはその後、党からこの立場を撤回し、当時ソ連が中立であったことを考慮して、帝国主義的ベンチャーとしての戦争に反対するよう求められた。後に中共は、1941年にドイツがソ連に侵攻してからは戦争を支持するようになった)。
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