社会主義者として
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1901年発足の理想団静岡支部に参加している。 教員時代から『週刊平民新聞』に寄稿していた。北海道で小学校教員の労働組合の結成を目指していたが、1904年日露戦争の開戦により、7月に両親の要請をうけて静岡に帰郷した。その帰郷の途中、東京の平民社で堺利彦と面談。 1905年、同じく静岡出身の渡辺政太郎、原子基と三人で社会主義の伝道のための「伝道行商」を計画した。同年4月に東京を出発し北海道をくまなく回る計画であったが、渡辺が退いたため深尾と原子の二名となり、荒畑寒村の助言で目的地を甲府地方に変更した。4月10日に平民社を出発するも、4月13日には府中警察署に検束され、行商道具一式を領置されたため14日に平民社に帰ってきた。同年5月からは北海道直狩村の「平民農場」の開墾事業を始める。農場経営は困難を極め、同年8月には経営を原子に任せ帰京し、二度と帰ることはなかった。11月には、解散した平民社の出版部を引き継ぐ形で設立された由分社に入社し、『家庭雑誌』の編集に携わる。 1906年2月、堺利彦とともに主幹となり日本社会党を組織し、西川光二郎らの日本平民党を合併。日本社会党の評議員となり、『光』・『新紀元』を統一した『日刊平民新聞』の編集にあたるが、翌1907年2月には社会党禁止、平民新聞は廃刊の憂き目にあっている。 1906年3月15日、電車賃値上げ反対市民大会で大杉栄らとともに逮捕(電車事件)。保釈後は堺邸に居候し、堺、堀保子(堺の前妻の妹)、荒畑の四人で同居していた。深尾は堀保子と婚約し8月には二人は静岡へ婚前旅行に出かけたが、同月中に大杉栄が堀を「手籠め同然に」屈服させ結婚した。 深尾は『平民新聞』発行名義人であったため、社会党第二回大会に関する記事および大杉の「青年に訴う」の記事に関して起訴された。しかし4月の発禁まで精力的に執筆をつづけた。『社会問題辞典』編集に携わり、『世界婦人』『社会新聞』紙上において女性解放について論陣を張った。1907年8月のケア・ハーディ来日の際には、ケア・ハーディが宿泊する堺邸で、山川や荒畑らと「富の鎖」を歌い歓迎した。 このケア・ハーディ歓迎会の後から深尾は高熱を出し病床に臥した。はじめマラリアと診断されるが、のちに肺病と判明し、帰郷して療養する。1908年3月には病床にありながら『女教師』を創刊。『女教師』は経営難により半年で廃刊されるが、後に「婦人教師を対象とした教育雑誌の先駆者として永久に記録されるべきもの」と評された。同年5月19日、病気の為仙台で行われた電車事件の控訴審は欠席した。。これ以降、自身の病気や、西川ら議会政策派と幸徳ら直接行動派の対立、深尾の私信が西川によって公表され堺の怒りを買うなど運動内部の抗争などの理由により深尾は運動から遠ざかっていくこととなる。
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社会主義者として
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1903年(明治36年)11月、幸徳秋水、堺利彦らによって平民社が結成され、機関紙として『平民新聞』が創刊された。社会主義者としての内山の名は、翌1904年(明治37年)の『平民新聞』第10号(1月17日)の「余は如何にして社会主義者となりし乎」という記事の中で初めて見られる。内山はこの記事で、社会主義を奉じるようになった理由について、「一切衆生悉有仏性」等の仏典の文言が社会主義の主張と一致したためだと述べている。 内山は、『平民新聞』紙上で平民社の同志を林泉寺に招き、堺利彦や石川三四郎をはじめとする多くの社会主義者が寺を訪れている。また、同紙に「兵士の母」と題して、日露戦争で徴兵された兵士の母親に同情する、非戦論的な記事を寄せている。『平民新聞』廃刊後も、後継の雑誌『光』や、福田英子によって創刊された『世界婦人』などにおいて、内山の寄せた記事がいくつか確認できる。 一方で内山は、林泉寺のある大平台においても社会主義活動を行っていた。石川三四郎によれば、内山は当地の青年たちに期待しており、青年たちに向けて林泉寺で集会を開いたり、『平民新聞』などを回読させることもあったという。青年組合にも関与していたことも分かっている。また、官憲側の資料によれば、児童を集めて無報酬で教育を施し、社会主義思想に基づいた説明を加えることもあった。しかし、児童に読み書き算盤を教えることはあったものの、思想的な話は一切しなかったという証言もある。
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社会主義者として
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「リンカーン・ステフェンズ」の記事における「社会主義者として」の解説
後年は社会主義的な思想に傾いていった。ステフェンズはアメリカのリベラル・コミュニティーの中で「反帝国主義派」の立場をとっていたと言われており、そのため第一次世界大戦を「帝国主義国家間の闘争」と捉え、フェビアン協会などとも協力しながら無賠償、無併合などの「勝利なき平和」を掲げて反戦的な傾向を強めていった。そしてまた、十月革命においては反戦的立場をとり、連合国からの離脱を唱えたボルシェヴィキを支持して、ロシアへの経済援助がロシアの中立化とドイツ軍の士気喪失に役立つことを説いた。ボルシェヴィキに対しては「経済的民主主義」の体制であると捉えたことに加え、メキシコ革命とロシア革命の調査旅行から両者の本質が「後進国の近代化」にあると見抜き、「第一次世界大戦に横わる真の争点は『ヨーロッパ諸国のうちどの国を後進国から、われわれのシステムの中にひきいれるかの選択』の問題であって、ボルシェヴィキは、『われわれの能率に対する尊敬』をもち、『われわれの大量生産様式を羨望し、それを模倣すべく計画している』と正確に捉えていた」という。 1931年には『自伝(Autobiography of Lincoln Steffens)』を発表したが、これは当時の彼の思想や革新主義の動向を示す興味深い本であるとされている。また同じ年、アラバマ州で起きたスコッツボロー事件に対して、セオドア・ドライサーやドス・パソスらとともに抗議活動を行なった。
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社会主義者として
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「リンカーン・ステフェンズ」の記事における「社会主義者として」の解説
永井陽之助は第一次世界大戦期におけるアメリカのリベラル・コミュニティーの潮流において、ステフェンズを「反帝国主義派」と位置付けており、「ミドル・クラス的価値とカルチュアに反發し、『マシーン政治』へ深い理解と同情にも示されるように革新主義者のモラリズムの自己欺瞞から解放されていた」と評価している。またステフェンズのような知識人こそがロシア革命の「二十世紀的本質」に迫り得たとも述べている。一方で彼のボルシェヴィキやメキシコ革命への理解に対しては、本質を見抜いていたと言う点で注目に値し、同時に当時のアメリカ・リベラルのボルシェヴィキ理解の極限を示しているとした上で、しかしながらステフェンズもまた自己体制のナルシシズムから完全に抜け出せていなかったことを指摘している。
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社会主義者として
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「ジャン・ジョレス」の記事における「社会主義者として」の解説
ジョレスは当初、政治思想として穏健共和主義を支持し、ジョルジュ・クレマンソーに代表される急進主義や社会主義に反対する立場を取っていた。そのジョレスが社会主義者に転向したのが1890年代後半とされる。ジョレスは、1892年タルヌ県カルモーで社会主義者と見なされた鉱山労働者が解雇されたことが原因でストライキが起きた際、ストを強力に支援した。翌1893年の議会選挙(フランス語版、英語版)でアルビから下院議員に立候補し再選された。しかし、これもつかの間、4年後の1898年の議会選挙(フランス語版、英語版)では再び落選の憂き目に会う。しかし、落選中の4年間、その卓越した雄弁と知性によって左翼政治家の筆頭として存在感を増していった。ジョレスは、『La Petite République(フランス語版)』紙(フランス語: La Petite République)の編集に携わり、ドレフュス事件では、被告ドレフュス側に立って、ドレフュスの無罪を主張する著書『証拠』(Les Preuves)を刊行した。ルネ・ワルデック=ルソー内閣に社会主義者として初めて入閣したアレクサンドル・ミルラン(のちに大統領)に関しては、ブルジョワ内閣に包含されたとして批判するジュール・ゲード派などが存在したが、ジョレス自身はミルランを支持している。
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社会主義者として
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1905年(明治38年)3月、週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』に堺利彦が書いた紹介記事によりエスペラントを知り、1905年(明治38年)7月に東京外国語学校仏語学科選科を修了し、同年から翌年にかけ東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開いた。 1906年3月には電車値上反対の市民大会に参加し、電車焼き討ち事件に関与したとして、兇徒聚集罪により初めて逮捕されたが、6月に保釈となった。同年11月には『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴され、以降、主に言論活動で社会主義運動に関わっていった。 1908年(明治41年)1月17日、いわゆる屋上演説事件で治安警察法違反となり逮捕された。同年4月、中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教えた。 同年6月22日、錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘(赤旗事件)でまたもや逮捕。それまでの量刑も含み、2年6ヶ月近くの千葉刑務所での刑務所生活を送った。 獄中でさらに語学を学びアナキズムの本も多読。 1910年(明治43年)9月、千葉刑務所から東京監獄に移され、幸徳秋水らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが、検挙は免れる。11月に出所。堺利彦らとともに売文社をつくる。 1911年(明治44年)1月24日、幸徳たちが処刑され社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村とともに1912年(大正元年)10月『近代思想』、1914年(大正3年)10月『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き運動を広げようとする。しかし発禁処分の連続から経済的にも行き詰まる。このころチャールズ・ダーウィンの"The Origin of Species"を『種の起原』という題で翻訳出版。アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や古くからの同志の反発もあり、復活させた『近代思想』も1916年(大正5年)初めに廃刊。 同年には伊藤野枝との恋愛も始まり、研究会への同志の参加も減る。妻堀保子との結婚も続く状況下、以前からの恋愛相手であった神近市子から11月9日に刺されるという日蔭茶屋事件が起きて、重症を負った。市子は身を粉にして献身的に経済面で大杉を支えており、世論は市子に同情的で、野枝を魔性の女のように噂し、その子を悪魔のように言った。大杉の評判も地に落ち、同志たちから完全に孤立し、野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。 1917年(大正6年)9月、長女魔子が誕生。村木源次郎だけは大杉の家に同居し手伝う。年末になり労働者の町、亀戸に移転、野枝と『文明批評』を創刊。和田久太郎、久板卯之助も大杉と行動を共にする。前年のロシア革命勃発の影響もあり労働運動が盛り上がる機運となり、1918年(大正7年)2月、同志たちとの関係修復を図り、研究会も再び定期的に開き、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強める。8月には九州、関西を周り、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにした。 1919年(大正8年)1月、近藤憲二らが主催し、毎回労働者も参集していた北風会と研究会を合同、6月から8月にかけ「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。9月、「東京労働同盟会」と改称し機関紙『労働運動』の刊行を企図し、同志達と相談を始め、10月に創刊号を発行。拠点となる労働運動社に仲間が集まる。 1920年(大正9年)、不況下で労働争議も増え大杉の活動は広がる。クロポトキンの著作翻訳、前年からの演説会もらい、メーデーを前にしての事前検束もされる。夏、コミンテルンから「密使」の訪問があり、10月、密かに日本を脱出して、中華民国の上海で開かれた社会主義者の集まりに参加。11月帰国。12月9日、社会主義者同盟結成に向けて鎌倉の大杉宅に地方からの出席者を中心に40名余り集まる。 1921年(大正10年)1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての『労働運動』(第二次)を刊行。しかし2月に腸チフスを悪化させ入院。6月、ボルの井伊らの裏切りもあり共同路線が破綻し、『労働運動』紙は13号で廃刊。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる。 1922年(大正11年)2月、八幡市(現・北九州市)での八幡製鉄所罷工二周年記念演説会に参加。この年前半、大杉は『労働運動』紙において「ソビエト政府」のアナキスト達への弾圧を報告。信友会有志、労働運動社の同志とともに大杉も労働組合の連合を目指すため全国労働組合総連合会発足に努力するが9月30日、サンディカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗、アナ・ボル論争は激化した。 後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する中浜哲は大杉に接近、『労働運動』紙へ労働争議の現場報告、詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成、新潟、中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴く、10月にはギロチン社を古田大次郎らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出する。 1923年(大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中華民国経由で中国人に偽装してフランスに向かった。マフノ運動の中心人物、ネストル・マフノと接触も図る目的もあった。またアジアでのアナキストの連合も意図し、上海、フランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユ着、大会がたびたび延期されフランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られる。日本の大杉栄と判明、裁判後に強制退去となる。在フランス日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸にて日本へ、7月11日神戸に戻る。その際、パリの大使館からの反対意見により切符が二等船室になったことを恨む記述を『日本脱出記』に書いている。 同年、滞仏中から滞在記が発表され、後に『日本脱出記』としてまとめられる。また、かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳(本国初訳)した『ファーブル昆虫記』が『昆虫記』の名で出版される。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇。 9月16日、柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の6歳の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害された。殺害の実行容疑者として憲兵大尉の甘粕正彦と甘粕の部下が軍法会議にかけられ、甘粕と森は有罪判決となった(甘粕事件)。公判内容は毎回新聞報道された。 また震災後、政府は、朝鮮と日本のアナキストの連合グループ、不逞社の朴烈、金子文子を「大逆事件」で調査した。メンバーで獄中病死した新山初代は震災直前の8月、大杉に勉強会での講師依頼をし、また大杉の呼びかけた集まりにも出席していた。これらの事実は、警察がまとめた訊問調書に記載。それらは公判記録として『アナーキズム』(『続・現代史資料』3、みすず書房、1988年7月)に収載されている。 12月16日、自由連合派の労働組合、アナキスト各団体が主催となり殺害された三人の合同葬が行われる。この際、右翼団体大化会のメンバーが弔問客を装って大杉の遺骨を持ち去る事件が起きた(大杉栄遺骨奪取事件)。大杉の遺骨は9日後に大化会会長の岩田富美夫が警察に届け出、翌年5月に警察から遺族に返還された。 労働運動社の和田久太郎、村木源次郎はギロチン社の中浜哲、古田大次郎らと共同して殺害への報復を意図し、翌年の一周忌までに政府へ攻撃を企てるが失敗した。
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