裁判後
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「ソクラテスの弁明 (クセノポン)」の記事における「裁判後」の解説
24. (ヘルモゲネスによると)ソクラテスは裁判後、こう言った。「自身(ソクラテス)に対する偽証をするよう証人たちをそそのかした人々や、それに従って偽証した人々は、自分たちの多くの不敬虔と不正を自覚しているに違いない。自身(ソクラテス)は告発された罪が全く証明されなかったので、有罪判決を受けても全く自分を卑下していない。ゼウスやその仲間の神々の代わりに、他の神々や新奇な神霊を認め敬っていることなどは証明されなかった。 25. 更に若者たちを忍耐と倹約に慣らすことが、どうして彼らを堕落させることになるのか。また死刑に定められている罪、すなわち神殿荒らし、壁破り強盗、自由市民の奴隷化、国家反逆の内のどれかを行ったと、告発者たちすら非難していないのにも関わらず、死刑判決が出されたことは驚くべきこと。 26. しかし、不当に死刑になるということによっても自分を卑下していない。それは判決を下した人々にとって恥ずべきことだから。なお、自分と同じように謀略で殺されたパラメデスが、加害者であるオデュッセウスよりもはるかに素晴らしい頌歌の主題となっていることは、自分にとって慰めとなる。それに自分は、いまだかつて誰にも不正を働いたことがなく、交わった誰一人、より劣悪な者にしたこともなく、むしろ教えることが可能な善いものは何であれ、問答する人々には無償で与え、彼らを益してきたことが、やがて将来証明されるであろうことも知っている。」 27. そう言うと、ソクラテスは表情もしぐさも足取りも明るく、その場を去った。彼に付き従っている人々が泣いているのに気付くと、ソクラテスはこう言った。「どうして君たちは泣いているのか。生まれた時から自然によって死刑が宣告されていることを、ずっと以前から知っているはずなのに。それにもし「善いもの」が流れ込み続けているのに早くも自分が死ぬのだとすれば、自分と自分に好意的な者たちが苦痛を感じなくてはならないのは明らかだが、つらいことばかりが予想される(老齢の)際に自分が生を終えるとすれば、皆はうまくいっていると考えて喜ばなければならない。」 28. すると、その場にいたソクラテスの熱心な信奉者であるアポロドロスが、「ソクラテスが不当に死刑にされるのを見るのは、この上もなく耐え難いことである」と言った。ソクラテスは彼の頭を撫でながら、「しかし「正当」に死刑にされるよりはいい」と言って笑った。 29. また(告発者の1人である民主派政治家の)アニュトスが通り過ぎるのを見て、ソクラテスはこう言った。「あの男は、自分(ソクラテス)を死刑にしたことを、何か大きな立派なことを成し遂げたかのように誇っているが、それは彼が将軍職の時に、自分が彼に対して息子に家業の「革なめし」の教育をすべきでないと忠告したことを、根に持っているからだ。そしてどうやら彼は、我々2人の内、永久に、より有益、より立派なことを成し遂げた者こそが(真の/本当の)勝利者であることを知らないようだ。 30. ホメロスは「死に際の者」に予知能力を与えたりしたが、(死に際である)自分も何か予言しておきたいと思う。自分はアニュトスの息子と少し交流したことがあり、彼は魂の面で力のある者に思えた。そこで予言するが、彼(アニュトスの息子)は父親が用意した奴隷に似つかわしい仕事(革なめし)に留まり続けることは無いだろうが、いかなる優秀な監督者も持たないが故に、何か恥ずべき欲望に陥り、劣悪な方向へと進んでしまうだろう。」 31. このソクラテスの予言は正しかった。その若者(アニュトスの息子)は、(後に)酒に喜びを覚えて昼夜飲むのをやめず、国にとっても、友人たちにとっても、自分自身にとっても無価値な者となった。そしてアニュトスは、息子へのひどい教育と彼自身の無分別のため、死んだ後も悪評を得ている。 32. 他方でソクラテスは、(既述のように)法廷で自分を褒め上げたが故に、嫉妬・反発を招き、裁判官たちに一層有罪判決を下すようにさせたわけだが、私(クセノポン)には、彼が幸運な運命に出会ったと思われる。人生の最もつらい部分を残し、最も安楽な死に様を得たのだから。 33. また彼は自らの魂の強さを示した。生き続けるよりは死ぬ方が自分にとってはより善いと彼が判断して後、その死に際しても柔弱・臆病になることなく、むしろ明るくそれを待ち望み、死の務めを果たしたからだ。 34. 私は彼の知恵と高貴さを考えると、彼のことを記憶しておかずにはいられないし、褒めずにはいられない。そして、もし徳を目指す人々の中で、彼よりも有益な者と交際した者がいるとしたならば、私はその者を最も幸福とみなされるに値する者だと考える(それほどソクラテスを越える人物を見出すことは難しい)。
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裁判後
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控訴審判決後、3人は上告せず懲役8年とした控訴審判決が確定した。3人は服役し、刑期を終えて出所するとタイに帰国した。 支える会は控訴審判決を受けて3人に上告の意思がないことを確認すると活動を停止。事実上解散した。ただし、この時の支援者同士のつながりはその後も継続されている。
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裁判後
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金子による最後のバージョンは逮捕前に公開された「Winny 2.0 Beta7.1」だが、第三者によるクラック版が開発・配布されている。金子は無罪が確定後も、Winnyの開発に戻ることはなく、2013年に急性心筋梗塞にて死去。Winnyの開発は、完全に終了した。
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裁判後
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拳銃押収事件の捏造疑惑や、裏金造りの実態を追う『スクープスペシャル総力取材・警察の闇』(テレビ朝日)が2003年11月23日に放送された。 北海道警裏金事件においてその実態を詳細に供述した元釧路方面本部長原田宏二は、1993年4月、道警防犯部に銃器対策室が発足したときの防犯部長であった。稲葉の旭川中央署、防犯部などで部下になったことがある。原田は、捜査協力員であるSの運用システム作成を指示し、釧路方面本部長に転出後の1993年秋に完成した。このシステムは、稲葉の逮捕とともに形骸化する。しかし、銃器対策室の捜査費は裏金に回され、捜査員は協力員への謝礼の多くを自費で賄っていたとされる。原田は稲葉事件について、捜査協力員への金や管理の問題が稲葉を追い込み、パンクしたのが原因であり、組織の問題が背景にあるのに無視され、個人的事件にされた、と述べている。原田は当初、稲葉事件の背景に捜査費が裏金化していた実態があったことを証言しようと、初公判前の2002年10月頃に稲葉の弁護士に申し出た。しかし2003年1月初め、道警監察官室の幹部から出廷を取りやめるよう働きかけられ、最後は自ら出廷を断念した が、そのときの思いが、2004年2月10日の記者会見における北海道警組織ぐるみの裏金の実態証言につながった。原田は3月4日の道議会総務委員会における参考人質疑で、捜査費や捜査用報償費が幹部交際費に使われて現場に回らず、捜査協力員への運用費を自費で賄わなくなったことが、稲葉事件の背景にある、と述べた。 稲葉は2011年9月に刑期を終え出所し、10月に『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』を講談社から出版 し、インタビュー等にも応じている。著書やインタビューでは、稲葉が公判の最終陳述で語った2000年4月頃の泳がせ捜査についても詳細に語っているが、函館税関はその事実を否定し、道警はコメントを控えると回答している。
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裁判後
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判決後、弁護団は声明を発表し、「事件発生、逮捕から34年、再審請求から7年を要してようやく冤罪が晴らされた。再審公判では、Aさんの健康状態を考慮し、速やかに手続きを進めた熊本地裁の判断を高く評価する」としたものの、齊藤弁護士は、確定審で「有罪という誤った判決を出した熊本地裁が、これに言及すると思っていたのに残念だ」と苦言を呈し、三角弁護士は、「再審が決まっても検察が何度も抗告して、裁判を長引かせることができる再審制度の改正も訴えていかなければならない」と述べた。Aの二男も、弁護団には「これでA家の矜持を保てた。感謝の言葉しかない」と感謝した一方で、「冤罪をつくり、判決を引き延ばした警察や検察の責任は今の法律では追及できない」と話した。また、熊本地検の江口昌英次席検事は、「被告人が有罪であるという新たな主張・立証は行わず、裁判所に適切な判断を求めていたもので、その点を踏まえて裁判所が判断したものと考える。今後とも基本に忠実な捜査を徹底していきたい」、熊本県警の甲斐利美刑事部長は、「無罪判決が言い渡されたことは真摯に受け止め、今後の捜査に生かしていきたい」とコメントした。 判決公判閉廷後の12時30分ころ、弁護団やAの二男は、Aの入所する高齢者施設を訪れ、Aに無罪判決を報告した。脳梗塞の後遺症でほぼ寝たきりの生活を送るAは、認知症の症状が進み、普段は感情を表情に表すこともほとんどないが、弁護団が繰り返し無罪と伝えると、頬を緩め目に涙を浮かべたという。施設の部屋には東住吉事件の青木恵子も駆けつけて、Aに花束を渡した。 2020年(令和2年)9月、違法捜査による長期間の身柄拘束の賠償を求め、国と熊本県を相手取り約8500万円の損害賠償を求める訴訟を熊本地裁に起こした。しかしAは10月20日頃に誤嚥性肺炎を起こし、熊本市内の病院に入院。10月29日午前2時59分、肺炎のため満87歳で死去した。
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「キンティンスヒル鉄道事故」の記事における「裁判後」の解説
ミーキンとティンズリーは、刑務所から1916年12月15日に釈放された。釈放後、ティンズリーはすぐにカレドニアン鉄道に灯火手として復職した。彼は1967年に亡くなった。ミーキンも貨物列車の車掌としてカレドニアン鉄道に復職した。数年後、余剰人員となって退職し、石炭の商売をする事業を立ち上げ、事故が起きたまさに現場であるキンティンスヒルの待避線から出荷していた。第二次世界大戦中はグレトナの弾薬工場で働き、後に健康を害して退職した。彼は1953年に亡くなった。 この2人は、その職務に関して事故を引き起こしたとして訴追された信号扱い手として、最初でも最後でもない。1892年のサースク鉄道事故(英語版)ではジェームズ・ホームズが過失致死に問われたが、無罪となった。1967年のコニントン・サウス鉄道事故(英語版)では、信号扱い手のフロストの業務が事故につながったとして2年収監された。
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裁判後
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「成田ミイラ化遺体事件」の記事における「裁判後」の解説
2011年12月、ライフスペース関係者は「千葉成田ミイラ事件(1)の再審支援の会」を発足させ、再審請求へ向けた活動(毎週都内で、シンポジウム&ライブの夕べを開催)をしている。 2012年1月、「千葉成田ミイラ事件(1)の再審支援の会」は、本件事件のきっかけを弁護士紀藤正樹の発言やリークにより、作り出されたと主張して懲戒請求を申し立てたが、却下された。 これを受けて、2014年7月14日、日本弁護士連合会に異議申立を行っている。
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