裁判後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 03:24 UTC 版)
オリッチは既に2年間以上にわたって拘留されていたため、裁判が終わった後に解放された。2006年7月1日にオリッチはサラエヴォ国際空港に到着し、オリッチを支持する数千人の観衆や家族、友人に迎えられた。オリッチを故郷のトゥズラへ移送するためにリムジンが用意された。 7月4日、オリッチはサラエヴォの日刊紙ドネヴニ・アヴァズ(Dnevni Avaz)のインタビューに答え、ICTYの拘置所の環境について述べた。それによると、拘置所の中は快活であり、戦時には対立していた囚人の間には敵対感情は無いと話した。オリッチは、拘置所内では特に将軍エンヴェル・ハジハサノヴィッチ(Enver Hadžihasanović)、ラヒ・ブラヒマイ(Lahi Brahimaj)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)と仲が良かったと話したが、アンテ・ゴトヴィナとも親しい関係にあったとも報じられている。オリッチは拘置所での時間を、トレーニングと英語学習をして過ごしたと話した。オリッチはまた、拘置所内での囚人らの行動と法廷での行動は、拘置所での厳しい生活を反映したものだとも話した。 オリッチは更に、スレブレニツァの包囲と虐殺に関与した多くのセルビア人らと遭遇したと話した。オリッチによると、ラドヴァン・カラジッチやその他がどのようにスレブレニツァでの行動と残虐行為を計画し実現させたかについて、ミロスラヴ・デロニッチ(Miroslav Deronjić)とは率直に議論を交わした。オリッチは拘置所でスロボダン・ミロシェヴィッチにも遭遇した。ミロシェヴィッチは冗談めかしてオリッチに対して、オリッチがミロシェヴィッチに対してスレブレニツァでの状況に関して報告書を作成してくれたらとてもうれしいと話し、オリッチはそれに対して、ミロシェヴィッチは既にその情報を全て知っていると信じていると応じた。ミロシェヴィッチは「ああ、しかし、それに関してお前の側からの見方を知りたい」と応えた。ミロシェヴィッチが死去した際に、オリッチは弔問帳には署名しなかった。オリッチによると、ヴォイスラヴ・シェシェリとムラデン・ナレティリッチ(Mladen Naletilić)は最大の冗談屋であり、ヤドランコ・プルリッチ(Jadranko Prlić)は彼を英雄と見ていた。 解放後オリッチはボスニアで事業を行っていたが、セルビアの放送局B92によると2008年10月3日恐喝容疑でサラエヴォ警察当局に逮捕された模様。
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