確定審
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 23:13 UTC 版)
週明けに初公判を控えた週末、2度目にして公判前最後となる接見に訪れた国選弁護人に対して、Aは「否認して争いたい」と伝えた。しかし、起訴事実を認めたうえで情状酌量を求める弁護方針を立てていた国選弁護人の反応は、「無罪を争うのは困難」として、どうしてもそうしたいのであれば私選弁護人を依頼した方が良いというものであった。金銭的にも時間的にも余裕がなかったAは、やむをえず国選弁護人の弁護方針に従うこととした。 1985年(昭和60年)4月8日の初公判で、Aは、動機について若干争う姿勢を示したものの、その他の点については起訴事実を全て認めた。国選弁護人も、起訴事実を認めたうえで、飲酒による心神耗弱を主張した。しかし、Aは、6月25日の第4回公判での被告人質問における「犯行のことは記憶に残っているけれども、ほとんど記憶にない」という曖昧な供述を経て、続く8月13日の第5回公判での被告人質問以降は、被害者を殺害したことはないと全面否認に転じた。これを受けて熊本地裁は国選弁護人を交代させ、新たに三角修一弁護士が国選弁護人に就任。Aの犯人性についての審理が行われたが、目撃者はおらず、Aと犯行を直接結び付ける物証もなかったため、Aの自白をどう評価するかが焦点となった。 1986年(昭和61年)12月22日、判決公判が開かれた。熊本地裁は、 1月20日以降の自白は、2月5日に一部付加ないし変更されているが、基本的な部分は一貫している 2月5日には拳銃等の不法所持も自白していることから、観念して本当のことを言う気になったという理由は十分首肯できる 犯行の動機・経緯・手段等について、客観的証拠に照らし不自然あるいは不合理な点はない 皮底靴の金具が供述通りに発見された事実や、別の将棋仲間を送っていく被害者を尾行した際にある家の居間に明かりがついていたという供述は秘密の暴露にあたる ポリグラフ検査においても反応を示した などとしてAの自白の信用性を認め、当時の捜査状況は「自白の任意性に疑いを抱かしめるほどの強制的なものであったとは、到底認めがたい」として任意性も認めた。そして、Aに対して懲役13年の有罪判決を下した。 Aは、控訴・上告して無罪を主張したが、1988年(昭和63年)6月21日に福岡高裁は控訴を棄却。1990年(平成2年)2月14日には最高裁が上告を棄却して一審判決が確定した。Aは服役し、1999年(平成11年)3月26日に仮釈放、同年7月22日に刑期が満了した。
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