再審請求までの経緯
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上告審から国選弁護人となった齊藤誠弁護士は、国選弁護人となった時点で再審請求を視野に入れていた。1992年(平成4年)3月24日、熊本地裁に対して再審請求予定として証拠物の保管を申請。1993年(平成5年)5月2日には、同じ法律事務所に所属し名張事件の再審請求に関わっていた野嶋真人弁護士とともに岡山刑務所に服役中のAに接見し、再審請求の準備を始めることを伝えた。さらに、知り合いだった国宗直子弁護士に熊本の弁護士の紹介を頼んだところ、確定審で国選弁護人を務めた三角修一弁護士の息子の三角恒弁護士が弁護団に参加した。三角恒弁護士は、父がこの事件に関わっていたことを知らず、裁判記録を見て驚いたという。息子である三角恒弁護士からこの事件のことを問われた三角修一弁護士は、多くは語らず「あれは無実だよ」とだけ話した。 弁護団は何度も自腹で熊本を訪れて、現地調査や関係者に対する聞き取りを行った。犯行直前にAは将棋仲間を自宅まで送る被害者の後をつけたとされ、自供では深夜であったが遠くまでよく見えたとされていたが、同じ1月の満月の夜に確認したところ、実際にはよく見えなかった。また、その途中のある家の居間の電気がついていたと述べたことが確定判決で秘密の暴露にあたるとされたが、実際には自供以前から警察はその事実を把握していたことも判明した。さらに、犯行時刻は1月6日の1時30分ごろとされていたが、翌朝被害者を見かけたという目撃証言を得た。この目撃者は、事件後に警察に対しても証言していたが、警察から激しい追及を受けて「被害者を見かけたというのは事実ではありません」という文書を書かされたとのことであった。 同年、弁護団は熊本地検に対して事件に関する証拠の開示を請求した。熊本地検はこれに応じ、証拠物の閲覧を許可した。1997年(平成9年)9月1日、熊本地検での3度目の証拠物閲覧で、弁護団は、開示された証拠物の中から、Aが燃やして捨てたと供述していたシャツの布片を見つけた。布片は全部で5点あり、弁護団が布片を組み合わせると、元のシャツの形が完全に復元された。5点の布片のうち3点はAが逮捕された翌日1985年(昭和60年)1月21日に領置され、同年2月5日にさらに1点が押収されたものであった。Aは2月6日に、その時点で見つかっていなかった左袖部分について、犯行時切り出し小刀に巻き付けて使用し、犯行後に軍手とともに風呂の焚口で燃やしたと供述していた。しかし、燃やしたはずの左袖部分は起訴後の2月14日には領置されており、明らかに自白と矛盾するこの布片の存在は明らかにされないまま熊本地検で保管されていたのだった。そして、警察の鑑定によれば、その左袖の部分にも血液の付着した跡はなかった。 これと並行して、弁護団は1993年(平成5年)、日本医科大学の大野曜吉教授に遺体の傷などの法医学鑑定を依頼した。事件直後に遺体を司法解剖した熊本大学の神田瑞穂教授は正式な鑑定書を完成させる前に死亡しており、確定審で証拠採用されたのは一部の傷について記載された警察の捜査報告書であった。弁護団が日弁連を通じて熊本大学に問い合わせたところ、神田教授が解剖時に作成した「鑑定書控」と題するメモが残されていた。大野教授はこのメモをもとに傷の検討を行った。神田教授のメモの取り方が一般的な鑑定書の記載方法と異なっていたため難航したが、神田教授の弟子にあたる熊本大学の恒成茂行教授の協力を得て、2007年(平成19年)9月10日に大野教授の鑑定書は完成した。鑑定書の中で大野教授は、被害者の傷のうち2か所の傷口は凶器とされた切り出し小刀より幅が狭く、この切り出し小刀は凶器たり得ないこと、致命傷となった傷は衣服の上から刺されたものであり「小刀が表皮に刺さった隙間から血が溢れ出したのを見た」とする自供と矛盾することなどを指摘した。このほかにも弁護団は、警察がAに対して実施したポリグラフ検査は質問方法などに問題点が多く信頼性がないとする鑑定結果も入手した。 なお、日弁連は1996年(平成8年)11月19日、弁護団の人権救済の申し立てを受けて調査委員会を設置し、武村二三夫弁護士が弁護団に加わった。これによって、再審準備のための弁護団の熊本への交通費や宿泊費などの実費が日弁連から支給されることとなった。また、2011年(平成23年)8月11日には、日弁連としての再審に対する支援を理事会で決定している。
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