犯行後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:42 UTC 版)
「北九州市病院長殺害事件」の記事における「犯行後」の解説
11月6日5時、船が松山観光港に到着すると、2人は国道で約100 kmあまり南下し、愛媛県南宇和郡内海村(現:愛南町)のホテル「シーパレス宇和海」で休憩した後、同日は高知県宿毛市のホテルに投宿。その後、Yの髭が伸びるまで、四国で遊ぶことにし、翌日(11月7日)には松山市に引き返して道後温泉で2泊し、11月9日夜に砂津港へ帰った。2人はこの5日間の旅行について、取り調べなどに対し「気楽な釣り旅行。宿毛から釣り船に乗るつもりだった」と言っていたが、この間に行った釣りはわずか1回のみで、宿毛では釣り船を探した形跡がなかったばかりか、外出すらほとんどしていなかった。また、Sと同業者であった小倉北区の釣具店主は、『朝日新聞』の取材に対し、「Sは『砂津(小倉港)から四国行きのフェリーに乗って釣り旅行に行った』と言っていたが、(北九州から)四国に釣り旅行に行く場合、佐賀関から宇和島行きのフェリーに乗船するのが業界の常識だから、それだけで不審に思った」と証言している。 2人は犯行後、数々の隠蔽工作を図ったほか、捜査機関から嫌疑を掛けられると、互いに相談して自白しないことを誓い合った(後述)。四国旅行の間、2人は(船内のものを含めた)公衆電話を使い、計20回近くにわたり、北九州局番の電話(「ピラニア」や同店のホステスの家、自宅などへの電話)を掛けていた。特に5日夜には、Yが内装業者に電話を掛け、翌6日に「ピラニア」店内の絨毯のうち、トイレ付近の絨毯(30 cm四方、2箇所が血で汚れていた)を張り替えさせている。その後、Yは同月9日、「(張り替えた箇所が)目立つようなら、全体を取り替えてくれ」と依頼し、トイレ前付近の絨毯を総取替させたが、同月22日にも、「色違いが目立つ」と言って店内の絨毯を総取替させた上で、店の入口部分の一部(業者によって警察に提出された)以外は、「焼き捨てる」と言って受け取っていた。また、Yは業者に対し、「最初に張り替えた日を1日早めて、5日ということにしておいてほしい」とアリバイ工作を頼んでいた。 また、捜査が難航していると見るや、1980年1月下旬には、「Aの頭部(当時未発見)の存在場所を教える」と称し、Aの遺族から金員を巻き上げることを相談したほか、さらに多額の現金強奪も計画した。これは、Aから思うように現金を得られなかったためで、別の病院長も標的の候補に上がったが、最終的に2人は、日本銀行北九州支店に出入りしていた現金輸送車を襲撃することに決めた。その上で、Aから奪った現金の一部を準備資金(犯行道具の購入や下見費用など)にして、実際に現金輸送車のコースの下見にも出掛けており、Aの遺体が発見されて以降も度々謀議をしていたが、捜査の手が身辺に及び始めたことを知り、断念した。それ以外にも、九州労災病院(小倉南区葛原)の給料を奪うことを考え、Yが患者になりすまして同病院を偵察したり、事件の証拠物が保管されていた大分県警察学校内鑑識課分室に侵入し、有力な証拠品とされていた死体を包んでいた毛布(Sのネームが入っていた)を盗み出すことや、それができない場合には建物に放火することで、証拠隠滅を図ることも計画したりしたが、後者は警備の厳しさから断念している。
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犯行後
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「千葉大学医学部レイプ事件」の記事における「犯行後」の解説
2016年11月21日に大学生であった3人が集団強姦致傷容疑で逮捕された。12月5日には研修医であった男性も共犯として準強制わいせつ容疑で逮捕された。12月12日千葉地方検察庁は2人の大学生を集団強姦罪で、1人の大学生を準強姦罪で起訴。12月22日には研修医を準強制わいせつ罪で起訴。 2017年1月31日に千葉地方裁判所で大学生3人の初公判が開かれた。5月29日に集団強姦罪で起訴された2人の大学生に懲役4年の有罪判決、準強姦罪で起訴された1人の大学生に懲役3年の有罪判決、準強姦罪で起訴された研修医に懲役2年執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。この判決を受けて千葉大学は3人の大学生を6月19日付で放学処分とした。懲役3年となった大学生は控訴したものの、9月19日東京高等裁判所は一審の千葉地方裁判所の判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。
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「ボビー・ケント殺害事件」の記事における「犯行後」の解説
グループはビーチに行きアリバイの口裏を合わせをした。カウフマンは警察に事件のことを話した人間にはマフィア式の復讐すると皆を脅し、マーティはボビーがギャングの関係者の少女に手を出して連れ去られたことにしようと提案した。ボビーの父フレッドは翌朝になっても帰らない息子の身を案じてマーティの自宅に赴いた。マーティから上記の話を聞いたフレッドは直ぐに警察に通報して事件の捜査が始まった。マーティも自宅にやってきた警官達から事件当日の事情を訊かれたが、彼はボビーと一緒にいたという少女の特徴についてや事件当時の自身の過ごし方などをほとんどまともに答えることが出来ず、対応した警官達は当初から彼が嘘をついていると思っていた。 そうでなくとも犯人達は事件のことを大なり小なり自ら様々な人に告白した。ディヴァーコは事件翌日に趣味のゲーム仲間に犯行の一部始終を告白し、アリは母親に殺人を目撃したと仄めかし、リサは友人のクローディアにボビーを殺害したことを語った。リサから話を聞いたクローディアも警察に通報した。 マーティと自分を警察が重要参考人として捜査していると理解したリサは母親に告白し、リサの母親は妹であるディヴァーコの母親に連絡を取り、ディヴァーコの自宅を訪れた。母親達は対応を協議するために警察署に友人がいる兄のジョー・スクリマを呼んだ。ディヴァーコから話を聞いたスクリマはブロワード郡保安官事務所にいる友人に連絡を取り、彼の友人は殺人事件を担当する刑事フランク・イララーザをディヴァーコの自宅に派遣し、協力的なディヴァーコは彼に全てを自白した。彼はイララーザをボビーの遺体の場所まで案内し、ボビーの遺体は事件発生から4日後に発見された。ディヴァーコの供述がきっかけとなって犯人達は次々と自首または逮捕されていった。
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