犯行後の逃避行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 16:52 UTC 版)
「名護市女子中学生拉致殺害事件」の記事における「犯行後の逃避行」の解説
犯行後、2人はAの名前入りの制服や、教科書などが入ったリュックサックを、遺体遺棄現場から西方約800 m地点に遺棄した。さらに、車からナンバープレートを取り外し、同日夜は国頭村宇佐浜の砂浜で車中泊した。 2人は翌22日朝、辺戸岬付近の農道で車を放棄した。その後、歩きながらヒッチハイクし、名護市内在住の女性の車に乗せてもらって名護市まで行くと、同夜は公園で一泊した。さらに、6月23日からは歩いて南下し、沖縄市内の公園で2泊したが、市民の捜索が大掛かりに行われていることを知り、さらに歩いて南下し、26日に浦添市勢理客の公園(後にUが逮捕された場所)で野宿した。2人が別行動を取るようになった時期については、「6月26日以降」「7月上旬」「7月12日以降」などの報道があるが、検察官の冒頭陳述によれば、2人は(7月5日に)犯行車両が発見されたことを知ったことなどから、別行動を取るようになったとされている。 それ以来、Yは沖縄県内(宜野湾市・北谷町の公園など)を転々とした。この間、パチンコで逃走資金を稼ぎ、8月下旬にフェリーで鹿児島に渡ると、広島・岡山・香川県と移動した。Yは香川でしばらく働いた後、同月12月上旬に鹿児島へ戻り、同月下旬に出身地の種子島へ渡った。また、Uは犯行車両が発見されたことを新聞で知り、公園を転々としつつ、断続的に日雇い労働をしながら、(後に逮捕された場所である)浦添市内の伊奈武瀬球場(浦添市勢理客)付近で生活していた。同年12月、Uは人材派遣会社を通じ、「仲村公一」という偽名を使い、安謝新港(那覇市)などで臨時雇の荷役作業に従事して、生活費を稼いでいた。実際にUの逮捕後、潜伏していた伊奈武瀬球場のバックネット裏では、Uが使っていたとみられた赤い婦人用自転車や衣類・作業服などとともに、「仲村」と書かれた給料袋や日当、支払い者のサインなどが記載された給料袋2つが発見されている。同球場に隣接していた消波ブロック製作所の警備員は、同月6日以降、Uが逮捕された1997年1月12日までに、4、5回にわたって球場内で寝泊まりしていたUの姿を目撃していたが、Uが殺人容疑で公開手配されて以降も、当時のUの風貌が指名手配写真と大きく異なっていたこともあって、「よくいる浮浪者だ」と思い、特に気に留めていなかった。また、Uを雇用した人材派遣会社の関係者も「『仲村』(=U)はとても明るく元気で、仕事も真面目で、殺人事件を起こして逃亡しているようには見えなかった。Uの指名手配写真が公開されて以降も、『仲村』がUとはまったく気づかなかった」という旨を述べている。
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