裁判記録
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「ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマー」の記事における「裁判記録」の解説
木庭宏訳 『消せない烙印 ユート・ジュースことヨーゼフ・ジュース・オッペンハイマーの生涯』 松籟社 2006年 前掲書の原書 Hellmut G. Haasis (ヘルムート・G・ハージス) Joseph Süß Oppenheimer, genannt Jud Süßジュースを擁護する立場で書かれている。史料保管所の資料が未公刊であること(邦訳書p.31)、二重間接引用が多いこと(p.458)など、分析の信頼性には一定の留保がつく。巻末の人名索引にはザームエルをふくむオッペンハイマー家の人々が11人いる。 典拠管理 BNF: cb119612555 (データ) DTBIO: 118757733 FAST: 1849793 GND: 118757733 ISNI: 0000 0001 0060 7062 LCCN: n85280879 NDL: 01085067 NKC: jn20000701748 NTA: 085770019 PLWABN: 9810607244805606 SUDOC: 027609537 VIAF: 22937112 WorldCat Identities: viaf-22937112
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裁判記録
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裁判の内容、経緯についてはアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(通称:韓国遺族会裁判)を参照されたい。なお文玉珠は最初の地裁判決が出る前に死去している。
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裁判記録
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詳細は「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」を参照 1991年12月6日、慰安婦に対する補償を請求して提訴。1次原告35人うち慰安婦は3名、他は元日本国軍人、2次原告は元慰安婦6人。 2001年3月26日、に東京地方裁判所は請求を棄却。この時点で金学順は死亡、元慰安婦1名は離脱して原告は40人(内慰安婦8名)。 2003年7月22日 東京高裁棄却。原告は上告。 2004年11月29日 最高裁も棄却。 訴状における金学順の証言。 35 原告金学順(キム・ハクスン。軍隊慰安婦) 原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の噺きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだつた。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。翌日から毎日軍人、少ないときで一〇人、多いときは三〇人くらいの相手をさせられた。朝の八時から三〇分おきに兵隊がきた。サックは自分でもってきた。夜は将校の相手をさせられた。兵隊は酒を朝から飲み、歌をうたう者もいた。「討伐」のため出陣する前日の兵隊は興奮しており、特に乱暴だった。朝鮮人とののしられ、殴られたりしたこともあった。これらの軍人たちは犬と同じで、とても入間とは思えなかった。部屋の中では、中国人の残した中国服や日本軍の古着の軍服を着させられた。週ないし月に一回位、軍医がきて検診を受けた。同原告は肺病にかかったため、薬をいろいろもらった。六〇六号という抗生物質の注射も打たれた。金学順はそこでは、「アイ子」という名前をつけられた。他の四人の朝鮮人女性は、一緒に来た「エミ子」の他、最も年長の「シズエ」(二二歳)と「ミヤ子」(一九歳)「サダ子」(同)という名前だった。シズエは、別室で特に将校用として一室をあてがわれたが、他の四人は一部屋をアンペラのカーテンで四つに区切ったところに入っていた。食事は、軍から米・味噌などをもらって五人で自炊した。この鉄壁鎭にいた日本軍部隊は約三〇〇人位の中隊規模で、「北支」を転戦していた。鉄壁鎭には一か月半位いたが、何度か移動した。金学順ら女性たちも一緒に移動させられた。行く先々の中国人の村には、中国人が一人もいなかった。いつも空屋となった中国人の家を慰安所と定められた。ある日、兵隊が二人の中国入を連れてきて、みんなの前で目隠しをして後手に縛り、日本刀で首を切り落とすところを見せた。密偵だと言っていたが、おまえたちも言うことをきかないとこうなるとの見せしめだった。 金学順は毎日の辛さのため逃げようと思ったが、いつも周りに日本軍の兵隊があり、民間人と接触することも少なく、中国での地理もわからず、もちろん言葉も出来ないため、逃亡することはできなかった。ところが、その年の秋になったある夜、兵隊が戦争に行って少ないとき、一人の朝鮮人男性が部屋に忍び込んできて、自分も朝鮮人だというので、逃がしてほしいと頼み、夜中にそうっと脱出することができた。その朝鮮人男性は趙元讃と言い、銀銭の売買を仕事としていた。金学順はこの趙について南京、蘇州そして上海へ逃げた。上海で二人は夫婦となり、フランス租界の中で中国人相手の質屋をしながら身を隠し、解放のときまで生活をした。一九四二年には娘、四五年には息子が生まれた。四六年夏になり、中国から同胞の光復軍と最後の船で韓国に帰った。しかし仁川の避難民収容所で娘が死に、一九五三年の朝鮮動乱の中で夫も死に、金学順は行商をしながら息子を育てていたが、その息子も国民学校四年生のとき、水死した。唯一の希望がなくなり一緒に死にたいと思ったが死にきれず、韓国中を転々としながら酒・タバコものむような生活を送ったが、一〇年前頃から、これではいけないと思いソウルで家政婦をしてきたが、今は年老いたので、政府から生活保護を受けてやっと生活をしている状態である。身寄りがない金学順にとって、人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。金をいくらくれても取り返しのつくことではない。日本政府は悪いことを悪いと認め、謝るべきである。そして事実を明らかにし、韓国と日本の若者にも伝え、二度と繰り返さないことを望みたい。 — アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件 訴状より、
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