フランス租界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/18 16:48 UTC 版)
詳細は「フランス租界(中国語版)」を参照 第二次阿片戦争(1856-1860年)後に漢口が開港され、イギリスが租界を設けた翌年の1862年に、フランスは漢口に領事館の開設を決めた。経済利権を確保するために1885年には商館も設けた。1896年に清国との間で「漢口法租界租約」を締結し、フランスとして上海、天津、広東に次ぐ4つめとなる租界を漢口に開設した。 1905年には北京と漢口を結ぶ京漢鉄路が開通し、租界に開業したフランス企業は20社、現地を含むフランス資本以外の会社等は250社に達したという。租界に滞在するフランス人居留民は1932年に最大の654人に達した。 フランス租界の面積は漢口にある列強5カ国の中で最も狭い33ヘクタールしか無かったが、京漢鉄路の漢口側ターミナル駅である大智門站と長江水運の漢口桟橋という2つの交通結節点を持つ利点を活かし、両者を結ぶ直線道路を建設し租界発展の基盤とした。租界内はl'Hôtel Terminusやle Hankow Hotel, l'Hôtel de Franceなどのホテル、カフェ、劇場や映画館が建ち並び繁栄した。インドシナ銀行やCrédit foncier d'Extrême-Orientなどの銀行支店が作られ、輸出入を担う商社、力車を製造する工場や醸造所などが作られた。 1943年、フランスは租界を放棄し中国(汪兆銘政権)が回収した。1944年には日中戦争に伴った米軍による漢口大空襲があり、全てのフランス人が漢口租界地であった場所から引き揚げた。
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