フランス移住〜晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 18:32 UTC 版)
「プレストン・スタージェス」の記事における「フランス移住〜晩年」の解説
破産も経験し失意のままヨーロッパに渡るが、幼い頃からフランス語が堪能だったことから、フランスを拠点にして1950年代は幾つかの脚本を執筆する。この当時のスタージェスを目撃したビリー・ワイルダーの話によると、カフェの前で通行人にブランデーをねだるほど困窮していたという。 1956年にフランスで最後の監督作『トンプソン少佐の手帳』を手掛けるも、1959年、ニューヨーク市にて心筋梗塞で亡くなる。 ハリウッドの黄金時代を華やかに生きた映画人であるにもかかわらず、長い間忘れられた存在だった。事実、日本では『結婚五年目』と『殺人幻想曲』が戦後すぐに公開されただけであり、1990年代に大規模なスタージェス作品の回顧展が組まれるまでは極端に知名度は低かった。 スタージェスが脚本家兼監督という先例を作ったため、その後、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー、ジョセフ・L・マンキーウィッツといった脚本家出身の映画監督が世に出ることとなった。ワイルダーは後に「彼が死んだとき、我々は敬愛するひとりの人間を失っただけでなく、映画の一部門をそっくり失ったんです。ああいう独創的な精神の持ち主はざらにはいません。彼が逝って、ひとつの種族ぜんぶが絶えたんです」と、その才能を讃えながら語っている。
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