フランス競馬の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
フランスでは狩猟乗馬と馬場馬術が発展したが、競馬に関しては後進国だった。イギリス風の競馬が持ち込まれたのは17世紀になってからで、ギャンブルを伴う競馬はフランス貴族の間で流行し、彼らはイギリス人を真似て、乗馬服や鞍、さらには乗馬スタイルもイギリス風に変えた。競走馬は全てイギリスから輸入しており、18世紀半ばには毎年数千頭の競走馬がイギリスからフランスに売られた。また、多くのイギリス人の調教師や騎手が招聘された。 19世紀にはいると、ナポレオンやルイ18世、シャルル10世など歴代の王は競馬の制度の整備を行った。しかし、こうした官製の「競馬」はあまり流行らなかった。賞金も低く、一般の興味を引くことはなかった。農民は農業に適した重輓曳種に傾倒していたし、国民の自尊心は敵国であるイギリスの馬産に学ぶことを妨げていた。フランス国内におけるイギリス純血種(後にサラブレッドとして確立する品種)の生産の起源は1770年代とされているが、19世紀になっても相変わらず毎年15000から20000頭の軽種馬を輸入に頼っていた。 1833年にようやく、フランス馬種改良奨励協会が組織された。会長にはイギリス人のヘンリー・シーモア=コンウェイ卿が就任した。協会は、イギリス風の競馬を行い、賞金によってサラブレッド生産を刺激し、フランス産のサラブレッドの資質向上を目指した。そして翌1834年から、パリ(シャン・ド・マルス)やシャンティイで競馬を開催するようになる。1836年にはイギリスを模倣してジョッキークラブ賞(フランスダービー)が、1843年にはディアヌ賞(フランスオークス)が創設された。これらの公認競馬に出走できるのはフランス産の競走馬に限られていた。
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